大銀杏 入道雲に 手を伸ばし
梅士 Baishi
夏の銀杏というのは威勢が良い。
大の字に枝を広げ、空に手を伸ばして入道雲をつかもうかという威勢
である。
ああ、短き真夏であることよ。
そして、長い長い冬が来る。
冬はどうして長く感じられるのだろうか。
夏は意識朦朧としているが、冬は眼光鋭く道を行く。
幾多の文明が作られては壊れしてきたという諸行無常のこの世であ
るが、そうした千変万化の中に求められていることは何なのか。
変化を楽しむという風流風雅の道なのか、悟りの道なのか、旅の楽
しみというべき出会いと発見の道なのか。
あるいは、激流の中に船を操る冒険の妙味を楽しむということかもし
れない。
普遍の真理というものは、変化の中に生まれ、変化を造形するもの
だからである。
そう考えると、やはり、試練というものは楽しむためにあるものらしい。
俳句をひねるために、幾多の文明が四季を織り成しているのかもし
れない。
【 天国と地獄! 】
「地獄なんて、宗教の脅しでしょ、そういうのって嫌いなんですよね」
「地獄はありますよ。信じられないことは何でもたとえ話にする傾向
がありますけど、地獄がなければアンフェアでしょう。真実は合理性
の中にあるものですよ。」
「病気したのは、墓参りをしないで、先祖を供養しなかったからだっ
て言われるんですよ。それで、墓参りくらいしに行きますけどね・・・。」
「ま、そういうこともあるかもしれませんけど、身の不幸を先祖のせい
にするというのも失礼な話じゃないですか。先祖というより、信仰がな
ければ身も心も腐敗しやすいのが泥沼のこの世でしょ。教養豊かな
信仰こそは、一輪の蓮華ですよ。」
この世は変化のためにある。
もちろん、変化は発展を目指すものであるが、発展は変化のために
あるというべきだろう。
発展は変化の法則である。
発展を超越したところに悟りがある。
しかして、変化こそが人生の糧である。
変化の中に冒険があり、学びがあり、悟りがある。
変化の中にこそ、風流の道がある。
しかし、変化の過程では正邪が発生する。
そこに生まれた邪道を正すことが、さらなる発展を生む。
この邪道を正すために、あの世の地獄があるのである。
あの世があるから、発展が継続され、公平のバランスが計られる。
あの世の存在は科学合理性の論理的帰結でもあるというべきであ
ろう。
それを否定するのは、実験科学の仮定そのものを否定する自己矛
盾であると知らなければならない。
地獄とは、科学的合理性のメカニズムであり、霊的発明である。
レプタリアン霊界には地獄は無いのだという。
弱肉強食の競争という概念の中に一元化されているのだ。
すなわち、地獄的競争は不合理であり、弱者として劣位に置かれる
という序列ができているのだろう。
しかし、そこには愛という変化要素が失われている。
愛にこそ、風流の精神があるのである。
爬虫類型宇宙人・レプタリアンの危機は、愛の欠如にあるのだ。
宇宙の中で孤立せざるを得なくなるからである。
地獄は実在する。
マイナスの人生は、地獄に引き寄せられる。
マイナスとは何か。
仏神を否定する傲慢、私利私欲のおぞましさにある。
唯物論は罪である。
その産物である社会主義、左翼民主党も罪である。
世界の真理を否定しているからである。
もはや引導は渡された。
地獄の通行手形である。
八百万の神々の逆鱗でもある。
その手形を持って、閻魔の門をくぐるが良い。
亡国の民よ、地獄合理性を学ぶが良い。
ただし、唯地獄論に陥ってはならない。
地獄は霊界の獄舎である。
その罪を反省して、罪を償い、光の世界に戻るべきである。
菅総理も、数千年もすれば、神々の恩赦があるかもしれない。
動物からやり直すとよいだろう。
盆のこの世に戻りし霊よ、他人に祟ってはならない。
永遠の生命を、地獄的に停滞して生きてはなるまい。
己の胸に手を当ててよくよく反省することだ。
私利私欲、恨みつらみ、責任転嫁、嘘つき人騙しを正当化してはい
ないかということを。
肉体我が死んで、霊体として生きていることを悟るべきである。
霊としての自覚が生まれたならば、己の心の穢れを祓うべきである。
反省をして詫びることである。
仏に手を合わせ、あの世の道をたどるとよかろう。
光の世界に戻るべし。
立憲女王国・神聖九州やまとの国
梅士 Baishi
