雨籠り 傘さす人を 眺めつつ
中村 梅士 Baishi
雨の一日だった。
子供たちは雨の花のように、傘をさして登校している。
カタツムリは雨に濡れて嬉々としている。
自分は雨ごもりである。
晴耕雨読、明日の授業に仕込みを急いだ。
テキストの受け売りはしないと思うから、思索するのだ。
そういえば、今日はコーヒー豆を挽くのを忘れていた。
食事の時は映画を観るが、そのうち居眠りしていたりす
る。
それで、コーヒータイムを忘れたのだろう。
今日の映画は『バグダッド・カフェ』の二回目と、『イ
ンセプション』である。
インセプションは人の深層心理に侵入して特定の観念を
植え付けようという心理諜報活動のようなものだが、パラ
レルワールドを見るようでもあった。
チャイナ版エリア51では実際に、仮想現実を見せて敵
を欺くようなことが行われているようだった。
霊的世界は思いの世界であるから、思えば実現する。
しかし、思わなければないに等しい。
だからこそ、認識力を広げ、さまざまな創造の意欲を持
つことが大切なのだ。
発想がなければ、あの世は退屈で貧しい時間に閉鎖され
るのである。
その意味では、映画はコストのかからない多様性の学習
チャンスではあると思う。
ただ、大自然の美しさは現実を体験したいものだ。
東京オリンピックは禍いをもたらす祭典となるだろう。
オリンピック開催のために効果のない「緊急事態宣言」
を発し続け、国民経済を停滞させ、社会生活の活力を失わ
せ、国民健康を後退させた罪は大きい。
しかも、安全性や有効性が確認されていないワクチンを
人体実験的に接種させ、他方でコロナ抑制に効果が発揮さ
れているイベルメクチンやヒドロキシクロロキンの使用を
認めないという矛盾は、議会でも、マスコミでも、全く問
題とされていないのである。
オリンピックの迷走を見て思うのは、スポーツと政治は
切っても切り離せないということである。
スポーツに社会統合の力があるからである。
だからこそ、政治とは別だと現実に目をつぶるのではな
く、政治的正義の観念をもって正々堂々と貫く気概が求め
られるのである。
モスクワ五輪のボイコットでオリンピック出場のチャン
スを逃して悔しい思いをしたことは分かるが、ならば、政
治的正義の観念を持って意見を述べた上で出場する選択は
あったはずである。
結局、補助金を切られれてはJOCも成り立たないという
打算の上で妥協したのではないか。
もっとも、ソ連のアフガン侵攻を、中共のジェノサイド
のように不正義と断定することはできなかったであろう。
オリンピック期間中は、紛争を控えるのが開催国の責任
であろうということで批判すればよかったのだ。
JOCが出場しないというなら、個人として、あるいはチ
ームとして参加すればよかったのである。
しかし、ジェノサイドを続け、香港弾圧や台湾侵略等の
明らかな弾圧行為を続ける中共をオリンピックに加えるこ
とは許されないことである。
北京オリンピックをするなら、IOCから脱退し、オリン
ピック開催権を国際的な選手統括団体を作って権限移行さ
せることだ。
スポーツ科学の問題点は、神の概念を排除する科学であ
るならばスポーツマンシップに反するということである。
信仰なき者にアスリートを名乗る資格はない。
共産国家にオリンピック参加の資格はない。
アマチュアリズムに代るべきスポーツ倫理であろう。
日本国独立宣言・神聖九州やまとの国
New Asia Happiness Party