ネジバナや 無限の空に 螺旋して
中村 梅士 Baishi
三日間の運動不足は、どんよりとしてたまらなく重たく
不幸な感覚に至った。
暑くて汗をかくので、速歩で通勤するのだが、結局汗び
っしょりになる。
しかし、運動不足感よりはずっと快適である。
土曜の仕事が終わって、博多港~箱崎経由で6km以上
を歩いて帰った。
今日は、トータル10km90分の運動量である。
箱崎宮ではゆり苑に立ち寄った。
ゆりがキリっと花を結び、桔梗が花風船を膨らませてい
た。
桔梗は夏の花である。
続いて、真言宗恵光院の菩提樹を訪ねた。
しかし、もはや一片の花もなく、青い実を結んでいた。
やっぱりなあ・・・。
カメラを持っていなかったので、あじさい苑には入らな
かった。
土曜日と言うこともあって、少し華やかだった。
明日はどこかに出かけたい。
そういえば、今朝、ネジバナが咲いているのに気が付い
た。
これもマツバウンラン同様に楽しみな野草である。
梅雨と言うイメージではないが、つゆ時の花である。
今日のジャズタイムは、ジャズではなく、マルタ・アル
ゲリッチの演奏を聴いている。
別格の女流天才ピアニストである。
その半生を、娘が撮影するドキュメント映画で見た。
1980年のショパンコンクールでの「イーヴォ・ポゴレリ
チ事件」は有名である。
アルゲリッチは、ユーゴ出身のイーヴォ・ポゴレリチが
本選に落選したことに抗議して審査員を辞退したことで、
ポゴレリチはかえって有名になった。
彼こそは天才であると。
ショパンコンクールで最も印象的だったのはスタニスラ
フ・ブーニンの演奏と優勝であろう。
この時も、ショパン解釈の常識を破っているとして会場
が騒然となったが、その優勝は満場の拍手で包まれたのだ
った。
イーヴォ・ポゴレリチも型破りの演奏が審査では裏目に
出たのだが、そのことがブーニンには幸いしたのかもしれ
ない。
しかし、素人が聴いていても鮮烈な印象の演奏だった。
どうして、厳しい練習を積んだピアニストでありながら、
優劣がつき、圧倒的な評価の差がつくのか、不思議である。
たしかに、アルゲリッチの演奏もブーニンの演奏も、魂
に響くものがあるのは確かなのだ。
基本的には霊的演奏なのだ。
ピアニストを諦めた友人の息子がどういう演奏をしてい
たのか知る由もないが、おそらくは、霊的に突き動かされ
るような演奏の領域には達していなかったのだろう。
これも悟りの世界なのだ。
物理的音列では分からない霊的感性の世界があるのだ。
ショパンならこう弾いただろうという推定からそのイメ
ージを再現するのが演奏なのではない。
ショパンの霊感を得て現代に伝える響きが天才の悟りな
のだ。
ブーニンの演奏はまさにそういう演奏だった。
そのブーニンは演奏活動を止めているという。
ブーニンはショパンの転生であると言われたが、今とな
っては疑わしい。
ブーニンがショパンなら、作曲活動をしているのではな
いか。
アルゲリッチは既に70歳を過ぎたのだという。
白髪交じりのぼさぼさの髪で演奏する姿は女性的美しさ
で見ることはできないが、近寄りがたい神性を感じさせる。
繊細でありながら、圧倒的な光を発しているのだ。
信仰心の希薄な日本人聴衆の前で弾くのは嫌なのではな
いか。
もっとも、別府での演奏会は毎年恒例となっているとい
う。
別府の鬼に霊的磁場が清められているからかもしれない。
音楽は霊感で感じ取るものである。
だから、霊感で演奏するのである。
神の領域にある者を人間的な目で評価してはならない。
プロの演奏家は社会人としての良識が通じないと言われ
るが、世俗を削ぎ落して霊感を研ぎ澄ませているというべ
きなのではないか。
苦楽中道にも、初級から上級まであるのではないかと思
い至るのである。
中道には死の覚悟がある。
それでも、いい音楽、いい汗、いい仕事を求めている。
それが、中級の苦楽中道ではないか・・・なんて。
日本国独立宣言・神聖九州やまとの国
New Asia Happiness Party