
先日紹介した「青柳坂」を登り切り、右折して少し歩いていくと、こんな標柱が建っていました。
「啄木」とは、言うに及ばず、あの石川啄木のことです。

一見、何の変哲もない普通の道ですね・・・。
一体何があるのでしょう?

正解は、こういうことでした。

1907年5月5日、津軽海峡を越え函館に降り立たった啄木が住居を構えたのが、函館山の麓にある青柳町だったとされています。
その後、同年8月25日の大火を契機に9月13日に札幌に移住し、函館滞在はわずか132日で終わりましたが、「死ぬ時は函館で死にたい・・・」という言葉を残すほど函館を愛した啄木の足跡は、今も函館に幾つか残されているのです。


看板から少し奥へ。
啄木が住んだ六畳二間の長屋は、この辺りにあったとされています。

啄木住居跡の近くには、このような場所もあります。

西部地区の観光名所の一つ、カトリック元町教会の隣の家で生まれた作家、亀井勝一郎。
石碑に刻まれている「人生邂逅(かいこう)し開眼(かいげん)し瞑目す」とは、「人生は多くの出会いを通じ、見えないものに気付かされ、そして終わっていくもの」という意味だそうです。
えっ、「坂の町シリーズ」なのに坂が紹介されていないよって?
失礼しました。先に紹介した二つのスポットは、今日の本題である坂の側にある場所だったのです。


と言うことで、遅ればせながら今日の本題。
三つ目に紹介する坂は「あさり坂」と言います。

坂の途中にある「井上米穀店」さんの建物。
1934年(昭和9年)の函館大火の後に建てられた、1階が和風、2階が下見板張りの擬洋風の店舗兼住宅で、「函館の歴史的風土を守る会」という団体による、歴風文化賞という賞の対象となっている保存建築物です。

坂を降りきったところにある、その名も「阿さ利」という精肉店さん。
私は入ったことがないのだけど、1階が精肉店で、2階は、市内でも根強い人気を持つすき焼き屋さんとして知られています。

その「阿さ利」さんの付近から撮った坂の光景。
この坂の名前の由来ですが、古代の貝塚として有名な大森貝塚の発見のきっかけを作ったとされている、アメリカの動物学者エドワード・モースが1878年に函館にやって来て、イギリスの地震学者ジョン・ミルンらと、市中で貝塚を発掘した際、その貝塚から、古代人が食べたと思われるアサリの殻が多く見つかったたことから、後年、住民達が、貝塚付近を通っていた坂の名前に「あさり」を取り入れたとされています。
なかなか興味深い由来があるものですね。