北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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坂の町シリーズ その4

2015-04-18 16:23:45 | 函館
西部地区の坂巡りシリーズ、続きます。
次は、坂の中でも割と大きな場所です。





「護国神社坂」。
以前も紹介したことがある、函館護国神社へと通じる坂です。





坂の下に、このような碑が建っています。
日本史を学習された方は「ゴローウニン事件」という事件を聞いたことがあるかと思います。
1811年、千島列島で測量作業を行っていた、ロシアの軍艦「ディアナ号」の艦長だったゴローウニン少佐ら8名が、国後島において幕府役人に捕縛された事件で、ゴローウニンらは、その後、根室~箱舘~松前へと護送され、拘禁されることとなりました。





ここに建っているのは、これまた日本史ではおなじみの、「高田屋嘉兵衛」の像。





単なる言い訳ですが、光の加減で上手く撮影ができなかったので、すみませんが、こちらに掲載されている像の写真を参照しながらご覧下さい。

司馬遼太郎の小説・テレビドラマ「菜の花の沖」の主人公として知られる高田屋嘉兵衛は、淡路島生まれの船頭で、江戸後期の1796年、辰悦丸という船で箱舘に入り、1799年に箱舘が幕府直轄地となって以降は、幕府の命により択捉航路を開き、箱舘の北洋漁業の基を築いた功労者であり、箱舘の経済発展に大きく貢献した人物である・・・という点は、教科書や受験の参考書にも載っている(多分)ところですが、この像が意味する所までは、教科書では触れられていないようです。

先に紹介した「日露友好の碑」とも関連があるのですが、ゴローウニンらが捕縛された翌年の1812年、択捉から箱舘に向かっていた嘉兵衛一行が、件のディアナ号に発見され、副艦長のリコルドらによって拿捕され、カムチャツカへと連行されるという事件が発生しました。
連行された嘉兵衛はリコルドと同じ部屋で起居を共にすることとなりますが、リコルドは、嘉兵衛の率直さと正直な態度に魅かれ、いつしか嘉兵衛に強い信頼を寄せるようになっていきました。

翌1813年、リコルドは嘉兵衛を連れて国後に向かい、ゴローウニンの釈放に向けた幕府との交渉を開始しますが、この時、幕府とロシア側の調停役を買って出たのが、誰あろう嘉兵衛で、交渉の結果、ロシア長官の公式な謝罪文書があればゴロヴニンを釈放するという幕府の見解が引き出され、リコルドは、謝罪文書を入手するために一旦帰国。その後、ゴローウニン事件の伏線となっていた、1806年~1807年に、ロシア艦隊が、樺太~択捉などを襲撃した事件が、決してロシア側の本意ではなかったという旨の謝罪文書をリコルドが持参したことにより、ゴローウニンは二年三か月ぶりに釈放され、事件は解決を迎えることとなりました。

そう、この嘉兵衛の銅像は、ゴローウニン釈放のために、幕府との交渉に向かう際の姿を再現したものなのです。





銅像を過ぎた箇所から、坂を見上げて一枚。
この坂は、かつて「倒産坂」という、縁起が悪そうな名前で呼ばれていたことがあるそうなのですが、それは、「神の元へ通じる坂に面して門を立てると、罰が当たって竈(かまど)が潰れる」という言い伝えがあったことによるものだそうです。
もっとも、現在は、多くの住宅や店舗が、坂に向けて門を構えていますが。





沿道には、このような立派な松が植樹されています。





1869年に坂の上に建立された「函館護国神社」。
いずれまた、ゆっくり散策したいと思います。





最後に、坂の上から下を見て一枚。
青空だったこともあり、良い眺めが堪能できました。
コメント
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