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北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
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館跡を歩く

2016-07-25 21:38:56 | 函館
函館の「館」とは、中世期に多く見られた、土塁や堀を巡らした住居あるいは規模の小さい城のこと。
「函館」の由来は、1454年に蝦夷地に渡来した河野政通という人物が、「宇須岸(うすけし)」と呼ばれていた、現在の元町公園の辺りにを築いた館が、東西約92メートル、南北約115メートルと大きく、この館が、対岸の北斗市側から見ると、箱に似ていたところから「箱館」と称されたとされているが、これと同時期に蝦夷地に渡来した和人が築いた十二の館の中で最も東端に所在する場所が、現在も、史跡として保存されています。








名前は「志苔館(しのりたて)」といいます。





先程も触れたとおり、志苔館は、室町時代中期(1400年代中頃)に道南地方に存在した十二館の一つで、小林太郎左衛門良景という人物がが居住していたとされているが、1456年に志苔館付近で発生した、和人によるアイヌ民族の鍛冶職人を刺殺するという事件をきっかけに、アイヌ民族が、周長であったコシャマインを中心に蜂起した「により、十二あるうち十の館が陥落することとなりました。
この戦乱が収まった後、再び小林氏がこの地に居住していたが、1512年に再びにアイヌの蜂起があり(これを、時の元号を取って「永正の乱」という)、志苔館は陥落。館主であった小林良定が討死し、その後、道南地方が松前藩の支配下に属することになったこともあって、志苔館は廃館となっています。

















この館跡はほぼ長方形を成しており、高さ2~4m、幅10~15mの土塁で囲まれていて、その外側には壕が巡らされています。
中の郭内は、東西70~80m、南北50~60mで、面積にして約4,100平方メートルの広さがあるとされています。

その後、大正時代、北海道庁による調査が行われ、保存状態が良好なことから1934年(昭和9年)に史跡に指定され、現在に至っています。








館の向こうに見えるは、空の玄関口の函館空港。
空港の側と言いつつ、交通の便は決してよいとは言えない場所にありますが、道南の歴史に触れる散策地の一つとして、オススメの場所です。
(場所はこちら
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