POPEYE最新号を読んで何かを始めよう! 「二十歳のとき、何をしていたか?」(ダ・ヴィンチニュース)
この雑誌は読んだことがないけれど、某所でこのコラムが盛り上がっていたので、引用させてもらう。
「二十歳のとき」というと、私は1993年。大学二年生だった。
私の通っていた大学は、二年生までが「教養課程」で、三年生からが「専門課程」だったのだけど、一年生のときに頑張れば、教養課程修了に必要な単位を取得してしまえるというシステムになっていて、私も一年生のときは、見事に一つも落とさずに単位を取れたので、二年生のときはそんなに科目も履修しておらず、学業面では割と暇というか、楽だった。
そのせいもあってか、一年生のときからやっていた大学生協のレジのバイトが、一年生のときは週三(月・火・木)だったのが、二年生になって平日全部になり、それはそれで大変だったけど、一年生のときは、閉店(20時)を過ぎても、例えばお金が合わないなど、やるべきことがあった場合は帰宅できなかったのが、二年生になってからは、当時の店長の一存(だったと思う)で、私達バイトは20時で強制退勤できるようになったので、そっちの面でも有難いと思ってやっていた。
そのバイトは二年生の終わりまで続け、今の仕事とは全然違うけれど、今から思えば、学んだことが今の仕事に活かされていると思える部分もあったので、貴重な経験だったと思う。
大学以外のトピックスも幾つかあるが、まず思い出すのは、この年に運転免許を取得したこと。
後期試験が終わり、春休みに入った2月頭から通い出したのだが、運動神経と反射神経の鈍さが災いしてなかなか順調に進まず、二段階修了の時点で補修を二回、三段階から仮免に至るときには四回も補修になってしまった。
それでも仮免は何とか一回でパスしたのだが、路上に出てからの四段階でも二回補修となり、ようやく卒検に辿り着いたと思ったら、何たることか一時停止不履行をやらかしてしまい失格。
その後、また二回の補習を経て再受検し、今度は合格。運転免許試験場での本試験も一回で合格し、ようやく免許を取得できたが、この時点で既に4月に入っており、3月末までに免許を取るという目標が達成できなかったのは残念だった。
約二か月半の自動車学校は、色々と大変だったけど、上手い具合にというか何というか、一年前に卒業した高校の同級生が、覚えているだけで七人も同時期に来ており、楽しくやれたという点では凄く良かったと思う。
また、本試験に合格した日は、試験場からそのままバイトに直行したのだが、実は当時、私の高校三年生のときの担任の先生(私の大学の先輩でもある)が夜間の大学院に通っていて、何度かバイト先で会っており、この日も会うことができたので、無事に免許を取得できたことを報告した記憶がある。
他にはそうだなあ、私は札幌の大学だったので、当時は実家から通っていたのだけど、この年の夏に、父親が釧路に単身赴任することになり、それから二年半、母親と二人暮らしをすることになった。
特段問題とか不便不満はなかったけれど、父親不在ということで、当時免許取得したての私が、慣れないハンドルさばきであちこち運転することになったのは、それはそれで大変だったかも。
それでも、普段は札幌市内だったのが、夏休みには、初の長距離運転で帯広まで走り、これで少し自信がついたのかなという気もする。
父親の話をすると、うちの職場でも、札幌から釧路に単身赴任している人では、中には頑張って毎週帰っている人もいるのだが、父親は、お金もかかるせいか、せいぜい月一だったと思う。
そうだよね、札幌~釧路だったら、やっぱり月一だよね・・・。
後は・・・、あっ、そうだ、大事なことを忘れてた!
大事過ぎるくらい大事なことを忘れてた。
1993年といえば、私が「太陽にほえろ!」にハマった年だった。
その経緯はこちらを。
この雑誌は読んだことがないけれど、某所でこのコラムが盛り上がっていたので、引用させてもらう。
「二十歳のとき」というと、私は1993年。大学二年生だった。
私の通っていた大学は、二年生までが「教養課程」で、三年生からが「専門課程」だったのだけど、一年生のときに頑張れば、教養課程修了に必要な単位を取得してしまえるというシステムになっていて、私も一年生のときは、見事に一つも落とさずに単位を取れたので、二年生のときはそんなに科目も履修しておらず、学業面では割と暇というか、楽だった。
そのせいもあってか、一年生のときからやっていた大学生協のレジのバイトが、一年生のときは週三(月・火・木)だったのが、二年生になって平日全部になり、それはそれで大変だったけど、一年生のときは、閉店(20時)を過ぎても、例えばお金が合わないなど、やるべきことがあった場合は帰宅できなかったのが、二年生になってからは、当時の店長の一存(だったと思う)で、私達バイトは20時で強制退勤できるようになったので、そっちの面でも有難いと思ってやっていた。
そのバイトは二年生の終わりまで続け、今の仕事とは全然違うけれど、今から思えば、学んだことが今の仕事に活かされていると思える部分もあったので、貴重な経験だったと思う。
大学以外のトピックスも幾つかあるが、まず思い出すのは、この年に運転免許を取得したこと。
後期試験が終わり、春休みに入った2月頭から通い出したのだが、運動神経と反射神経の鈍さが災いしてなかなか順調に進まず、二段階修了の時点で補修を二回、三段階から仮免に至るときには四回も補修になってしまった。
それでも仮免は何とか一回でパスしたのだが、路上に出てからの四段階でも二回補修となり、ようやく卒検に辿り着いたと思ったら、何たることか一時停止不履行をやらかしてしまい失格。
その後、また二回の補習を経て再受検し、今度は合格。運転免許試験場での本試験も一回で合格し、ようやく免許を取得できたが、この時点で既に4月に入っており、3月末までに免許を取るという目標が達成できなかったのは残念だった。
約二か月半の自動車学校は、色々と大変だったけど、上手い具合にというか何というか、一年前に卒業した高校の同級生が、覚えているだけで七人も同時期に来ており、楽しくやれたという点では凄く良かったと思う。
また、本試験に合格した日は、試験場からそのままバイトに直行したのだが、実は当時、私の高校三年生のときの担任の先生(私の大学の先輩でもある)が夜間の大学院に通っていて、何度かバイト先で会っており、この日も会うことができたので、無事に免許を取得できたことを報告した記憶がある。
他にはそうだなあ、私は札幌の大学だったので、当時は実家から通っていたのだけど、この年の夏に、父親が釧路に単身赴任することになり、それから二年半、母親と二人暮らしをすることになった。
特段問題とか不便不満はなかったけれど、父親不在ということで、当時免許取得したての私が、慣れないハンドルさばきであちこち運転することになったのは、それはそれで大変だったかも。
それでも、普段は札幌市内だったのが、夏休みには、初の長距離運転で帯広まで走り、これで少し自信がついたのかなという気もする。
父親の話をすると、うちの職場でも、札幌から釧路に単身赴任している人では、中には頑張って毎週帰っている人もいるのだが、父親は、お金もかかるせいか、せいぜい月一だったと思う。
そうだよね、札幌~釧路だったら、やっぱり月一だよね・・・。
後は・・・、あっ、そうだ、大事なことを忘れてた!
大事過ぎるくらい大事なことを忘れてた。
1993年といえば、私が「太陽にほえろ!」にハマった年だった。
その経緯はこちらを。