昨日紹介した「弁天歴史公園」の隣にある「石狩弁天社」。
昨日の記事ではさらっと触れただけでしたが・・・、
普段は入ることができないのだけど、この日は、特別にガイドさんのご厚意で、中に入ることができました。
写真撮影&ブログ掲載の許可も得たので、いざ中へ。
ちょっとぶれちゃってますが、中央にある「辯財天」の文字に注目。
「弁天」なので「弁才天」かと思うところですが、こういう表記もあるんですね。
元来は、インド神話に伝わる河川の女神で、音楽、弁舌、財福、智慧の徳があるとされているそうで、「財」の字は、財福に重きを置くものとして、この表記が用いられているそうです。
真ん中に弁財天を配置し、七柱の神様が。
ドラマや映画の「主役」「脇役」のように「主神」「脇神」という言い方をするものなんですね。
二つ上の写真の、一組の男女が並んでいるような神様は、「鮫様」として崇められている、「妙亀・法亀大明神」。
「鮫」は、石狩地方のアイヌの人たちの伝承において、「石狩川の主」とされているチョウザメのこととされており、文政元年(1818年)、石狩場所(交易を行う拠点の場所)関係者の夢枕に、巨大な鮫と亀が現れたことで、これを崇めるための祠が建てられ、同8年(1825年)にこの大明神の像が奉納され、現在でも、漁業従事者の信仰の対象となっているのだそうです。
中には、幾つかの武将の絵が。
「加藤清正虎退治の図」。
安政3年(1856年)、越後出身の「井上文昌」の筆によるものだそうです。
越後ということは、当時交易に用いられていた、北前船ででも運ばれてきたものなのかなと思われます。
「武将図」という絵。
解説のとおり、誰がモデルとなっているかは不明とのことだそうです。
「関羽正装図」という絵。
「関羽」って聞いたことがあるなと思ったら、解説のとおり、「三国志」に出てくる神様。
解説のとおり、学問の神として崇められ、かの水戸光圀も信仰していたそうです。
「鰐口」とは、仏堂の正面軒先に吊り下げられる仏具の一つで、上部に上から吊るすための耳状の取手が二つあり、「金の緒」と呼ばれる布施(布で巻いた綱)で鼓面を打ち誓願成就を祈念したそうです。
「石狩弁天社」の歴史は、元禄7年(1694年)、松前藩の「石狩川秋味上乗役」という、船乗りの監督を務めていた「山下伴右衛門」という人物が、鮭の豊漁と航海の安全を祈願して、「松前神明社」から神体を勧請したのが始まりとされています。
当初は石狩川の河口近くにあり、かの松浦武四郎も「西蝦夷日誌」という日記に「川端に弁天社あり。社殿美々敷立たり」と記していましたが、明治7年(1874)に現在地に移転しています。
移転前の文化13年(1816年)に、石狩場所の請負人であっ村山家によって社殿が建てられ、それ以降、村山家をはじめとする漁業従事者が信仰の中心となり、現在の社殿も、元々「村山家の内神」と言われていた同家の所有地に建てられているそうです。
昭和42年(1967年)に、石狩市(当時は石狩町)の文化財第一号に指定され、現在も、漁業の神様として広く信仰され続けています。