JR発寒中央駅から北方向へ向かう割と大きな道路。
通り名の表記はありませんが、通称「稲荷通」とか「稲荷街道」と呼ばれています。
通りの名前は、沿道にある「発寒神社」が、安政3年(1856年)に、蝦夷地開拓の命を受けて来道した武士達が、稲荷社を建てたことを起源としていることに由来しているとされています。
発寒神社については、一昨年の1月に行っていたのだけど、積雪により見ることができなかった場所がありました。
それが、写真の環状列石。
10世紀前後の史跡とされており、そこに後の代の墓が重複している二重墳墓の状態となっていて、昭和7年(1932年)に、その二重墳墓も発掘されているそうです。
境内には、発寒地区の様々な歴史に関する碑が建立されています。
少し後で触れますが、発寒地区に屯田兵が入植したのは、明治9年(1876年)のことで、この碑は、それから100年を記念して、昭和50年(1975年)5月に、屯田兵の子孫の方々によって建立されています。
こちらは、先程触れた、開拓の命を受けて入植した旗本達の移住を記念して、昭和34年(1959年)9月に建立されたものです。
(「発寒神社」の場所はこちら)
神社を離れて、近くにあるコンビニの前へ。
私の祖先である屯田兵は、現在の琴似周辺に明治7年(1874年)に入植していますが、その二年後、発寒地区にも屯田兵が入植し、現在に至る開拓の歴史が始まっています。
調べてみたところ、発寒地区に入植した屯田兵の中にも、現在の私と同姓の人がいたそうで、直接の祖先かどうかは分からないけれど、どこかで繋がっているのではないかと考えると、現在私が発寒に自宅があるということも、何かの縁なのかなと思います。
(この碑の場所はこちら)