釧路に住んでいたとき、市内にある石川啄木の歌碑を紹介したことがありました。
歌碑巡りが観光コースとして人気になっている釧路と、歌碑は釧路ほど多くはないけれど、「死ぬときは函館で死にたい」という言葉を残したほど啄木が愛した函館。
どちらがどうということではないけれど、両方で町歩きを経験した身としては、それぞれの町における啄木の足跡や、ゆかりの地に関する情報を、読んでくださる方々にしっかりと伝わるよう、発信していかねばと思います。
(釧路での啄木歌碑巡り)
場所は、桜の名所や「こどものくに」でも知られる「函館公園」。
ここに、啄木の歌碑が設置されています。
ちょっと(かなり)読みにくいですよね。
1907年(明治40年)5月5日に函館へやってきた啄木は、「苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)」という文芸結社で活動する傍ら、「弥生小学校」という小学校の代用教員や、「函館日日新聞社」という新聞社にも勤め、離散していた家族を呼び寄せて共に暮らすようになりました。
その啄木の居宅があったのが、函館公園にも近い青柳町という町で、「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」という歌を詠んだことでも知られています。
この歌碑は、1953年(昭和28年)、現在「函館市地域交流まちづくりセンター」となっている「丸井今井百貨店」が建立したもので、詠まれている「かなしけれ」は、「悲しけれ」や「哀しけれ」ではなく、「愛しけれ」と解釈するのが妥当と言われています。それくらい、啄木の、青柳町という地に対する思い入れの強さが窺えるということなんだと思います。
もう一箇所、歌碑を紹介します。
場所は、「函館護国神社」へ通じる「護国神社坂」。
「こころざし 得ぬ人人の あつまりて 酒のむ場所が 我が家なりしかな」と詠まれているこの碑ですが、現在地の建立されたのは、2019年という最近の話です。
元々は青柳町に住んでいた陶芸家さんが、1986年(昭和61年)、啄木生誕100周年を記念し、啄木愛好家らに呼びかけて自宅敷地内に歌碑を建てたのが最初でしたが、その後、立ち退きをして、2002年(平成14年)に歌碑も撤去されました。
撤去された碑は、その2年後に函館市と合併した、旧「椴法華(とどほっけ)村」の住民が譲り受け、自宅前に立てて保管していましたが、行き場を失うことを危惧した「函館啄木会」という団体が、ゆかりの地に戻そうと交渉を重ねた結果、2019年12月に現在地へと移設されたというものです。
英文で「Those who are frustrated In their endeavors Get together and drink Sake At my house.」と刻まれています。
最後は、市電「谷地頭」で下車し、「立待岬」へと向かう途中にある「石川啄木一族の墓」。
ここには、あまりにも有名な「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」の歌が刻まれています。
亡くなった翌年の1913年(大正2年)、節子夫人の希望で啄木の遺骨は函館に移され、1926年(同15年)に現在地に墓碑が建て替えられて以降、節子夫人を含む一族が追葬され、現在は一族8人が眠る墓となっています。
このお墓からは、昨日も紹介した「大森浜」方面を望むことができます。