函館市内にある「函館赤十字病院」。
ここにはお世話になったことはないですが、小学校1年生のとき、教室内で転倒して頭を打ち、脳震盪を起こしたときに、当時住んでいた北見市の赤十字病院に入院したことがありました。
私と日赤の関わりはそれくらいですが、そんなことはどうでもよく、実は、現在に至る「赤十字」というものの原点が函館にあったとされていることを紹介するために、この写真を冒頭に持ってきました。
そのエピソードに深くかかわっているのが、この「高松凌雲」という医師。
1836年、筑後国(現・福岡県)の生まれで、22歳の時に江戸へ出て医師を志し、大坂の適塾で緒方洪庵の指導を受け、後に幕府奥詰医師に登用されました。
1867年のパリ万国博覧会の際に日本代表団の随行医となりましたが、1868年1月に幕府崩壊の報せを受け、同年5月に帰国。帰国後、 幕府艦隊の品川沖脱出に同行して蝦夷地へ渡り、箱館で、榎本武揚の依頼により「箱館病院」の頭取に就任しました。
「箱館戦争」のさ中、その「箱館病院」においては、敵味方(旧幕府側にいた凌雲からすれば、新政府軍は本来敵の位置付けだった)の区別なく平等に傷病兵の治療に当たったとされていますが、このことは、パリ滞在時に学んだ「赤十字精神」に基づくものとされ、このことが、日本における赤十字の原点が函館にあるとされる由縁となっています。
1869年5月11日の新政府軍箱館総攻撃において箱館病院が襲撃された際には、凌雲自らが新政府軍兵士と対峙して、病院の神聖を説き、医師たる自分には生命の尊厳を守る義務があると主張して、その場を収めたとされています。
箱館戦争の終結後も、凌雲は箱館に残り病院長として患者の治療に当たったそうです。
ところが、その一方、「箱館病院」の分院が置かれていた場所では、その精神が踏みにじられるような、大変痛ましい出来事が起こっていました。
写真は、その分院が置かれていたとされる、「高龍寺」というお寺。函館では最古のお寺とされていますが、箱館戦争当時は現在地にはなく、1879年に現在地に移転しています。
その「高龍寺」の境内に、このような碑が建立されています。
「傷心惨目」と書いて、「しょうしんざんもく」と読みます。
何が起こったかというと、新政府軍の箱館総攻撃があった1869年5月11日、新政府軍の兵士たちが箱館病院の分院に乱入し、傷病兵らを容赦なく殺害した上、寺に放火するということがあり、これにより、旧幕府脱走軍の構成員だった、会津遊撃隊の兵士が多数犠牲になっていました。
この痛ましい出来事から11年後の1880年、旧会津藩有志が、惨殺された藩士を供養するために、この碑を建立しています。
「傷心惨目」という言葉は、唐の文人・季華の「古戦場を弔う文」の一節からの引用とされています。