遊歩道が整備されている小さな公園。
札幌だけでなく、全国あちらこちらに同じような場所は沢山あると思いますが、今回はこちらに注目してみました。
「偕楽園」というと、茨城県水戸市にある、「日本三名園」の一つにして、梅の名所としても有名な公園を思い浮かべる人が多いと思いますが、札幌にも、かつて同じ名前の公園がありました。
この解説にも書かれている「民と偕に(ともに)楽しむ」とは、「孟子」の一節だそうです。
いきなり違う場所の写真。
近くにある「大原簿記情報専門学校札幌校」の校舎。
その校舎前に、このような物が設置されています。
「偕楽園」の由来が書かれていますが、あれっ、何か違う気がします。
先程の「北区歴史と文化の八十八選」の方の解説板は「民と偕に楽しむ」が由来とありますが、こちらは、「水戸の偕楽園に因んで名づけられた」とありますね。
ちょっと疑問に思ったので調べてみると、そもそも作られた年代は水戸の偕楽園の方が、江戸時代の天保13年(1842年)とずっと古く、こちらの方が、先程書いた「孟子」の「民と偕に楽しむ」を基に名づけられたのだそうです。
ということは、この二つの掲示板は、どちらも言葉足らずな気がします。
「八十八選」の方の書きっぷりだと、開拓使が「民と偕に楽しむ」を積極的に引用したかのようにも思えるし、それに対してこちらの方は、単に水戸の偕楽園の名前を引用しただけというようにも思われかねない気がします。
札幌の「偕楽園」を提唱した開拓使が、由来まで深く考えなかったとは考えずらい気がするので、「水戸の方の由来である『民と偕に楽しむ』に共感したため、同じ名前にしようと思うに至った」というのが正しいのではという気がしますが、どうでしょうかね・・・。
歴史について色々勉強してみようと思い立つと、こういう細かいことが気になってきちゃいます。
それはそれとして、大原簿記の前の方の解説板に、「清水が泉の如く湧き」と書いてあります。
実はこのことが、この「偕楽園」の核となる部分です。
これは、明治24年(1891年)に作られた「札幌市街之図」という地図の抜粋。
「偕楽園口」とある部分に、大きな水の流れがあります。
開拓が始まった当時、この辺りは一面の原生林で、アイヌ語で「野の傍の泉池」を意味する「湧水池」(ヌㇷ゚・サㇺ・メㇺ (Nup-sam-mem)」が豊富な水を湧き出させ、「サクシュコト二川」をはじめとするいくつもの小川が流れていたとされています。
現在は遊歩道が整備されていますが、この場所に水が流れていたという話は、七年前(もうそんなになるのか・・・)に放送された「ブラタモリ」札幌編でも紹介されていました。
「偕楽園」の周辺には、先程の「八十八選」の解説にもあるとおり、農作物の栽培を行う「育種場」や鮭の孵化場などが置かれていて、憩いの場としてだけでなく、札幌の発展に繋がる産業振興の場としても活用されていました。
やがて人口が増え、周辺の宅地開発が進み、流れていた川も生活排水による水質汚濁が進み、とうとう水脈が涸れてしまうこととなってしまいましたが、昭和54年(1979年)には現在のような公園として整備され、平成14年(2002年)に、「偕楽園緑地」として公示され、現在に至っています。
現在更地になっているこの場所には、昨年秋まで「井頭龍神」という祠が設置されていました。
これもまた「ブラタモリ」で、豊富な水が湧き出ていたことが紹介されていたので、一度行ってみようと思っていたのに、迂闊にも、解体されてしまったことを知らないまま一年が過ぎてしまいました。
最後に、最近、歴史に関する講習会や研修会に参加する機会が多くなっていますが、来週25日(日)から三回に亘って開催される、札幌の歴史と文化に関するワークショップの参加に当選しました。
座学や聴講だけでなく、現地調査もプログラムに入っているので、とても楽しみです。
こんにちは。
ブラタモリ、御覧になられてたんですね。
当時は諸事情で録画できていなかったので、本を見て色々思い返していたところです。
この周辺に来られたこともあったのですね。
清華亭と植物園は、順番に、次の記事で紹介しようと思っていたので、よろしければお付き合いください。
息子が学生時代に遊びに行った時、ホテルからぷらぷら歩いて、清華亭や植物園にも行きました。
清華亭は大きい建物ではありませんが、緑に囲まれた佇まいの良いところでした。この時代特有の和洋併せ持つ建物で、中も見学しました。
玄関にある開拓使の星のマークが北海道ならではと、印象深く覚えています。