龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

震災以後を生きる(10)

2011年06月15日 02時54分33秒 | 大震災の中で
近海のいわしやサンマと地物の菜っ葉とご飯があれば、なんとか生きていける、と思っていた。
高度経済成長期も、オイルショックのときも、安定成長期と呼ばれたときも、バブル期だって、あるいはバブル崩壊後も、失われた10年(20年?)と呼ばれた時期であっても、それは代わらなかった。

みんながそう考えていたとは思わない。
極めて個人的な感想だ。

コタツを「作る」ために、あるいはご飯を作るために炭で火を熾し、お風呂を焚く前に薪割りを、していた子どもの頃、冷蔵庫もガスも水洗トイレも無かった。

そのころのことを考えれば、たいていのことはどうってことはない。
ずっとそう思っていた。

しかし、海の魚が食べられない。地物の野菜が食えない。
原発事故は、福島県にそういう現実をつきつけている。

イタリアの国民投票が示した脱原発を、自民党の石原幹事長は「集団ヒステリー」と評したとか。
http://news.tbs.co.jp/20110614/newseye/tbs_newseye4751167.html

でもね。
上記の私のような考え方に立つと、

石原幹事長のように、今なお原子力発電所の電力が必要だっていうことは、この基本的な生活の基盤(いざとなったら自然の恵みで生きていけるよという安心感)を、借金の質に入れてまで現在の「豊かさ」を持続させようという方向性に見えてしまう。

もちろん、そちらを選びたいヒトが日本人の中にもいることは分かる。
「産業が衰退して、日本が貧乏になる、失業者が増える」
という危機感もあるんだろうな、とは思う。

そういう危機感を、私のような考え方から逆に「ヒステリー」と言ってしまっては、たぶん「政治」にとっては思うつぼ、なのかもしれない。

福島では、脱原発は単なるヒステリーではなく、冷静に考慮すべき現実です。

石原幹事長の発言は、悪いけれど、

 「福島」のヒトの気持ちは分かるけど現実は別。
 イタリアのヒトの気持ちは分かるけれど、現実は別。

と、「気持ち」と「現実」を一所懸命切り分けようとする欲望に支えられている言説、と見受けられる。

近海の魚と、地物の野菜が食べられなくなっちゃう危険は、日本にとっては経済的損失よりも、大きいと思うんだけどなあ。
都会の発想は違うのかしら(笑)。
いざとなったら福島の産品は買わなければ済む、ってこと?
イタリアから輸入してもいいのか?
うむ。

福島では雇用問題が深刻化しはじめています。
原発のおかげで支えられている雇用と、そのために失った雇用と、どちらが大きいと思いますか?
それも福島という例外的局所的事象、ということで丸められていくのかな……。

つまりさ、ディベートでよく使われる主張の型の一つだけれど、
「起こる可能性は低いが、一端起こったら被害は甚大だ」
ってのが、こういう原発プラント反対側立論の定番。
それが実際起こっちゃったわけですから。

広島・長崎の軍事的被害

福島の平和利用的被害

(           )

上記のカッコに入るのが、いったい何かってことですよねえ。

1,原発の早期再立ち上げと安全運用による経済復興
2,早期脱原発による、エネルギー政策の転換
3,どうでもいいからうまくやってよ
4,経済政策、エネルギー政策に止まらず、日本のあり方について考え直す

私はイワシとかサンマとかと地物の野菜や果物と共に生きたいなあ。
このまま原発事故が収束して、地表の線量逓減化が実現すれば、福島が当たり前に持っていた「豊かさ」を、いつか回復できるのではないか、と望みを持っています。
それは、既存の原発を一刻も早く立ち上げようという方向性とは明らかに異なります。

経済発展は、走り続けなければ成り立たない。
それも分かります。
いったん降りたら、もう戻れないみたいに思うのも分かります。

でも、逆にね、福島県の農水産物という自然の恵みを享受する道から、強制的に下ろされてしまったのです。一端「降りたら」、戻るのは本当に大変なのですね。経済的な「暴走特急」(3/11以後の福島から見ると、そうも見えてきます)から降りるのも勇気が必要かもしれないけれど、それは同時に、福島のような場所をさらに、未来に準備する道、でもある。

「過ちは繰り返しませぬから」

という「倫理的な要請」が、経済発展を続けるためにさえ、いな、むしろ経済発展を私達が支えていくためこそ、必要なのではないでしょうか。
ブレーキのない暴走特急には乗れないということです。
だからといって、全員ただちに特急列車から飛び降りるわけにはそりゃいかねえだろうさ。
突き落とされた福島の住民から見ても、そりゃちょっと無理っぽい。
だから、ここは、もし、持続的に経済発展とか考えるんだったら、むしろ踏みとどまって、考えた方がいいと思う。

政治と企業と官僚と学者とその中にいる労働者
に任せて、そこから下りてくる「お上の声」を、「パターナリズム」的に受け取って「いいなり」になる

のではなく、多少「国」が貧乏になっても、トータルで「豊かさ」をきちんと議論した方がいいんじゃないかな。

報道の側や学者さんの側、政治家や企業も、原発事故が大変だとか、逆に原発再稼働しないと何兆円の経済成長が損なわれるとか、その場のことだけを断片的正しさで報道するだけでなく、私達が判断し、選択できるだけの情報量とシミュレーションを提示してほしい。

平時なら、官僚のコントロールに任せて、日の丸企業の元気に頼っていれば良かったかも知れない。
でも、今は平常の時、でもなさそうだし、個人個人のさまざまな力を伸ばす、絶好の「危機」にしたいなあ。

私は、近海の魚と地物の野菜や果物が安心して食べられる生活ができるなら、「かなりの程度」貧乏になっても、その方がいいと思う。

最初から停電する時間帯さえ分かれば、計画停電だって全然オッケーだし。

そうそう、思い出したけれど、昭和30年代、私が子どもの頃は、断水と停電なんて、日常茶飯事だったんだ。








朗読劇「物語シアター」第六回公演のこと。

2011年06月13日 22時46分17秒 | 大震災の中で
6月11日(土)渋谷文化総合センター大和田伝承ホールで開催された
朗読劇「物語シアター」第六回公演(代表 堀井真吾)
を聴いてきた。

メチャメチャ面白かった。

肉声を生で聴くこと。それも、単なるおしゃべりや一方的な「説得」を旨とする講演などではなく、「対話」において耳を澄ますこと。

そういうことを、震災後の身体が求めていたのだと分かった。
年若い友人がチケットをおくってくれたのだ。

この友人は、18年前私が無呼吸症候群で入院したときも、椎名誠の旅本を持ってきてくれたのだった。
18年ぶりに危機を迎えたとき、さりげなく、きっと偶然に違いないけれど、最高の贈り物を与えてくれる。
そういう「出会いの偶然」は、文句なく心を豊かにしてくれる。

この朗読劇との出会い自体もまた衝撃だったなあ。

語り物の力を再認識しました。なにせ世界というフィクションを、声で支えるっていうのは、なんと素朴といえば素朴なことではありませんか。
でも、それが最高に洗練された日本語のプロによって語られていくのです。

悪いけれど、凡百の役者さんの「ことば」と「身振り」が霞んでいきます。
これに匹敵する「声」というか「語り」を現出させることのできる「役者」さんは極めて限られている。


感想はこちらに書きましたのでよろしければ。

メディア日記
http://blog.foxydog.pepper.jp/?PHPSESSID=4bdd9b017e6bb2c6148b813986adbb9b

1月に観た柿食う客のわざとらしさ満載の語り口で演じられる『愉快犯』とはおよそ対極的で、でも、声が出てくる場所を徹底的に見つめようとする瞳の凝らし方は、そんなに遠いわけでもないのかもしれない、と思ったりもします。

虚構を構成する「生身」の場所。

権力(状況定義力)のせめぎ合う第一の場所は自分自身の身体である、というその「そこ」は、とても視線を固定して目を凝らし続けることがむずかしい場所なのかもしれません。
耳を澄ませたり、身体を極限まで緊張させたり、飛んだり跳ねたり立ち止まったり、深呼吸したりしながら、それでもその辺りに近づいていきたい。

日常の忘却装置が、原発の冷却装置と共に壊れてしまった「現在」を生きるには、身体を伴った状況定義装置としてのフィクションが、どうしても必要不可欠です。
それは絶対に、震災前のシステムの使い回しであってはならない。
そのほかのことはほとんど何も震災前のシステムについて実感を伴った参照すべき記憶は失われてしまったけれど(柄谷行人が指摘してましたねそんなことを)、そこだけは譲れません。
水を入れ続ければ冷却可能、といいながら、汚染水をまき散らすような「忘却装置」に、私達は依存してはいられないでしょう。

いや、依存からの離脱はあらたな依存を招くだけだとすれば、そんなに早く代替表象を求めることはないのかもしれません。殊に、何も慌てて下手な旧来のシステム=政治の嘘で「福島」の裂け目を修復してもらう必要はないんじゃないかな。
長い黄昏を生きながら、酒でも酌み交わしつつ、ゆっくり瞳を凝らしていけばいい。
目を閉じて老後を生きようとは思わないから。

どんなシステムが立ち上がるのか、むしろ福島の人間は、わくわくしながら現場に立ち続けることができる、とも言えるかもしれません。黄昏をむやみに怖れることはない、のだと思います。
だって、原発事故がもし全然なかったとしても、瓦一つ手に入らない現状を考えても、「復興」とか煽るヒトたち、電力不足を必要以上に声高に危惧する人たちは、今すぐ福島県民退去すべき、みたいな人たちと同様、空絵事の絵図面が好きなのかもしれません。

大切なのは、顔が見える範囲の肉声から始めること。遠い目標を見失わず、目の前のことを少しずつ動かし、それを慌てずに、多少黄昏れても新しい発見があればそれを支持しつづけていくこと。
大きな国家規模の忘却装置が作動するスイッチオンの振動を見逃さないこと。
そういうことじゃないかな。

空絵事だから悪いといっているんじゃありません。
性急な強制はちょっと、と福島の住民の背中の唐獅子ボタンならぬ聖痕が痛むのです。
最初から国家レベルでの風呂敷を広げられると、排除と強制の論理が原発推進でも原発反対でも「説得と強制」として発動しちゃうんですよね。つまりは過度の状況定義力が発生しちまう。

過度の状況定義力すなわち権力は、それはもう、放射能だけで沢山なのです。

むしろ、小さな内部被曝も注意深く避けるように、小さいことから変化を歓迎し、大切に育てていく、ってことが重要なのかもしれません。放射能という絶対的な状況定義に対して、私達ができることはいったい何なのか。

政治的に同心円状に警戒区域を地図上に描くことではなかった、ということは分かりました。

科学的に放射能汚染地図を丁寧に科学的に計測して構成していくことは重要だけれど、それは「福島」とか名付けるべきものでもないことも分かってきました。
それは単なる汚染地域。
人間の営みは、線量の単純な関数として定義はできないですからね……。

福島県が受け続けている放射能汚染によって福島の住民が負った「裂け目」を、どうやったら人間の営みに生かし、その聖痕のバトンを誰にどうやって手渡していけるのか。
これからはそこいら辺をまた考えて行かねばなりません。

震災以後を生きる(9)

2011年06月13日 21時57分54秒 | 大震災の中で
associations.jp:シンポジウム第一部の模様(動画)?活動報告
http://associations.jp/topi02.html

いとうせいこう司会、柄谷行人、磯崎新、大澤真幸、山口二郎のパネラーで、2011年6月5日新宿紀伊國屋ホールで「震災・原発と新たな社会運動」と題するシンポジウムが開催された。その参加者各自の問題意識を各十分程度で述べる第一部が動画としてアップされていました。

以下の下手な説明の文章は、動画を見れば読まなくてもいいです(笑)。

震災後の状況を考える上での支援ツールとして効果的かと思います。

大澤真幸は、
今生きているヒトたちとは繋がることが(困難ではあっても)可能だ。現に被災地の現場でそういうことが起きている。しかし原発事故ではそうはいかない。
不在の他者と向き合わねばならないから、と指摘。
それでも過去の他者(死者たち)は「弱い不在の他者」であって、伝統とか歴史とか繋がり得る可能性はある。
問題は、未だこの世に存在しない未来の人々という「強い概念」としての「他者」とどう繋がるか、が難しい。つまりは五十年前に原発を計画した人は、今日この状態をきちんと想像していなかっただろう。
それを今批判するとするなら、私達もまた、未来のまだ見ぬ他者に対して、想像し、責任をとらねばならない。
それは、目に見える他者と繋がることよりずっと難しい。

だから、「エアコンか人間か」という「偽ソフィーの選択」は、本来だれでも人間を選べるはずなのに、「今」のエアコンと未来の他者の選択が難しくなっているのだ。

という話を。

柄谷行人は、

私は別に報告することはない。デモにいけと。以上。
しかしそれではいかんというので、敢えていえば、国家こそが原発=放射能を作った、いや、ある意味では国家が放射能なのだ。

とそんな話を。(他にもいろいろあって面白いんですが、詳細は動画を。)

磯崎新は、ネタとして、
1960年代はアバンギャルドしていればよかったリニアプログラム時代。
1980年代は値段の付かないものに値段をつけてネットワークに乗せていくノンリニア時代。
そして2010年代は自然なき自動発生を目指すジェネリックな時代。
言挙げせずに、やれ!
というアジテーション。

山口二郎は
戦後民主主義はこの事態に対応できるのか?
for the people
by the people
of the people
のうち、forはどちらかというと、人民のためにというばかりではなく、人民に代わって、という官僚パターナリズムの意味合いが強く、結果として人民による、という能動性が希薄で受け身的民主主義の傾向が強かった。
一時期原発誘致を市民が阻止するという動きも90年代にあり、それはby the people的動きとして評価できたのだが、2000年代になって、小さい政府とか自己責任とかいうおかしな方向に向かい、結果としてby the peopleは大阪・名古屋のようなスットコドッコイのポピュリズムにいってしまった。
能動的な「社会活動」をどうするのか、がポイント。
実は、原発推進を掲げていた自民党政権の時ではなく、官僚や企業のコントロールが甘い民主党の時に起こったのは幸いだった。説明が二転三転したということは、隠しおおせる大本営発表が通じず、真相に近づいていくプロセスが見えていたという意味では、良かった、とも言える。少なくても原発推進の政財官鉄の三角形に、学者や組合など四角形五角形と重なっていたことが明らかになってきたのではないか。
特に学者がそこに荷担していたことが明らかになったのは大事なことだ。
今は、強いリーダーが何も市民に考えさせないで(一見強い)リーターシップを取ること、なんて国民が求めなくなってきている。これは大事なことではないか。
夕方菅首相と会食したが、これからは市民運動がポイントになる、と彼が言っていたのは大事なところだ。



あ、なんかこうやって紹介してたらむしろそれぞれの芸風を披露しているある意味「芸能」っぽい感じもしてるかもしれない、と感じはじめた。
第二部もアップされないかなあ。
でも、こうやって遠くでやっているシンポジウムとかを公開してもらえるのは、いい時代になったものですね。

柄谷行人と大澤真幸の二人が言及していたのは
『災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか 』レベッカ ソルニット (著)
まあ、原発事故をそこに加えると、うまくいかない(大澤)、あるいは国家がその共同体の可能性を壊す(柄谷)という風に、想像的には「特別な共同体」を想定しつつ、そうはいかない現実にどうアプローチするかって方向性で読んでるみたいですが。
とりあえず注文。

震災以後を生きる(8)

2011年06月13日 02時46分53秒 | 大震災の中で
震災から3ヶ月が過ぎた。
(大げさに聞こえるかもしれないが、それ自体は小さな形で)さまざまな「疲弊」の徴候が顕れて来つつある。

Wikiを引いたら、PTSDといえば、まず戦争帰還兵の心の傷から研究が始まった、とある。
忘れていたがそういえば聞いたことがある。
今日、母親と昼飯を食いながら
「戦争以来かねぇ、この大震災は」
と訊いてみたら
「いや、戦争も大変だったけど、終戦後はむしろ希望があったからね。これから良くなるっていう」

と80歳になる戦中派は言っていた。
先行きの暗さでいえば、「戦後」より暗いかも、という話だった。

示唆的だ(苦笑)。
これから福島は「長い黄昏の時を生きることになる」のだろう。
汚染物質の最終的は廃棄場所の候補にもなっているということだし、冷却によって排出される汚染水の処理さえメドが立っていないし、冷温安定化はどれだけ先か分からないし、冷温安定化は既に飛散した放射能の問題を全く解決しないし、調査が進むにつれてホットスポットは増えていくし、何より福島県産ブランドの受けた傷は、向こう何年かは回復の余地がないし、市民の内部被曝についてはほぼ大多数がそのまま「なかったこと」にされていくのかもしれないし、
福島県に住む限り、その闇の根源である洞穴のような東電第一原発の事故と向き合いつづけていくしかない。
そしてそれをそういう風に「福島県」の問題として切り分け、あるいは「日本」の問題として切り分けるのが、「人間的振る舞い」である、ということも間違いない。

科学に「福島県」とかいう「範疇」は別にないものね。汚染区域という概念はあっても。

私達が「福島」に生きるのは、それを自分の内面に位置づけ、生きる場所として「選び得ないものを選び直す」形でそこに生きる、ということになる。
究極的には東京に移住したって阿蘇のふもとでやり直したっていいわけだから。
実際、沖縄までいってしばらく逗留するよ、という福島県民だっているわけだし。

何を好きこのんで高濃度放射能汚染地区に住み続けるのか、という疑問が、「外部」には立ち上がるのかもしれない、とも思う。

でもね。
そこに生まれてそこに育ったから、そこに住み続けるっていうのは、そう簡単に変更可能なことではないと思う。避難するならむしろ、初動が勝負だった。
政治的にそれを抑制したんだね。民族ならぬ県民大移動を抑止することが一方では最も大きな政治的課題だったのだと今は思う。
情報を隠蔽した最大の効果が、福島県民を福島県内に住み続けさせることだったのだ、と今なら分かる。

「直ちに健康に影響はない」という枝野発言も
「20キロ圏内退避」という設定も
「100ミリシーベルト/年以下の累積被曝線量では、有意な危険は認められない」趣旨の山下俊一発言も、
「いわき市は安全です」宣言の渡辺いわき市長も

全て200万人大移動をこの震災の中で「二次的大震災」として起こさないために作用した言説だ。

それは、過度な移動を抑制するという意味では「パニック防止」という表現の側に評価は傾いていくのだろう。
他方、市民を危険性をもった汚染地域に留まらせるという意味では「情報隠蔽」による被曝被害の拡大という評価が下されていくに違いない。

福島県民は、ここでもまた、引き裂かれる。
「引き裂かれてる場合かっ。とにかく逃げろよ!思考停止して放射線を浴び続けるのかっ?!」
という「福島県民=愚民」という指摘も
「原発容認=追認が現況を招いたんだから、福島県民も愚かだよね」認識に加えて、一面当たってないこともないな、と思う。

他方、被曝の現実を踏まえれば、政治の「小汚い」姿勢は断固許し難い、とも見える。
「200万人を動かす覚悟なくして1億2000万人を動かせるのか」
というのは、一国の為政者に対して至極まともな市民の反応。
でもさあ、200万人は急には動かせないと思うよ、実際。

むしろ問題はここから先。

おそらく福島県民は、大震災と原発事故によって精神的な疲労が蓄積してきた3ヶ月後の今からいよいよ、その疲弊自体に対応する「症状」と向き合わなければならない。

改めて、福島に住むのか離れるのか。

「沈み続ける船」なら、退避するに如かず。
乗り換え可能な「船」ではなく交換不可能な「生きる基盤」としてとらえるなら、踏みとどまってそこに新たな営みを刻んでいく他はない。

今年の四月、東京から福島の職場に戻ってくることになった知人は、周囲の友人から
「故郷だからっていって、なぜ今福島に行かなくちゃならないの?」

「強いね、あなたは」
という二つの反応を受け取ったという。

ヒトはそろそろ、福島県民だけじゃなくて「裂け目」を生きるということがあるのだ、と気づいていい。

治療的排除的に一方的クリーンさを求める欲望からも、
統治し、数の上でヒトを効率的に生かしていく「生=権力」的な振る舞いからも

距離を置いて「分離」しつつてんでに共同性を求め直す道筋が私たちには必要だ。
自分自身が生きることからさえ、距離を持たずにはヒトは生きられないのだと、知っていい。

福島県民というカテゴリーを今「使用」することに意義があるとしたら、そういうことなんじゃないかな。
福島県とか20キロ圏内とか20ミリシーベルト/年とかいう区切りは、何かをあるいはだれかを同定するための機能としてだけ働いてしまいかねない。
でも、そうじゃないことにヒトは気づいてはいる。

「1ミリシーベルト/年以下であることが望ましい」
とか言うけれど、神様もいないのに「望む」って誰が何をどう、誰に対して「望む」のか。望んでどうなるのか?誰がそれを実現に向けて動かすのか。

「望みます」「願います」
というのは、現行ですべての権力から解放された「天皇」にこそふさわしい言葉であった、とふと、気付く。

無力であることと権力を行使してしまうことの隙間。
福島に踏みとどまることと逃走することの隙間。
村上春樹の世界像的にいえば、トーラス状の立体上に立ちつつ、その内側にあるドーナツの穴のような洞穴を見つめ続ける「非現実」と「現実」の隙間。

その中で単一の共同体を構成せず、「分離」「離散」しつつも粘る姿勢。
そういうところを私たち、いや、少なくても私は「生きている」「生きさせられている」のだと感じるのです。

たとえば東電第一原子力発電所で作業を続ける作業員の多くは福島県民だし、警戒区域から県内の他地区に避難・転校してきた児童生徒たちも福島県民だし、避難所暮らし4ヶ月目に入ってなおも体育館暮らしをするのも福島県民だし、日常がすっかり回復して、放射線量も低く、「どうして同じ福島と括られてしまうのか」と風評被害にいら立つ地区のヒトも福島県民だし、避難してきた親戚とバトルを繰り広げながら「避難民」の悪口をまきちらすおばさんもまた福島県民だし、都内の飲食店で福島ナンバーの入店拒否をされたりするのも福島県民だし、考えてもしょうがないから、何もなかったように「問題」を忘却して日々を生きる福島県民もいるし。

でも、その根底には3・11以後の「揺らぐ大地」(地面が揺れるという意味でも、精神的な安定という意味でも、社会的な基盤という意味でも)に対する「負の想像力」の渦巻きがグルグルしていることにおいて共通している。
原発事故の負の負債(負債は負に決まっている?)を自らが抱えていると思うヒトは、福島県民じゃなくてもその聖痕を「負の想像力」で背負うヒトだと思う。つまりは引き裂かれてる人々ね。

もう一度「日本」を、という言説に与するヒトは、その裂け目を回復すべき傷と見るのだろうし、引き裂かれた生をなおも生きるヒトは、それこそが生の与件だ、と見るのだろう。

これから先、なおも「福島県民」を生きるというのは後者であり、「日本人」を生きるというのは前者になるのかな。

反原発であっても原発推進であっても、前者のヒトが多い。
そういうヒトは「日本人」なのだろうね。

原発事故を「聖痕」と見なさなければ、そんな「福島県民」にならずに「日本人」であることを回復したい、と思うヒトもむろん福島在住のヒトにはたくさんいるでしょう。

当然「福島県民」として引き裂かれつつもさらに「日本人」としてもアイデンティファイしつづけていく、ってのが「ふつう」なんだけれどもね。

あー面倒くせぇ(苦笑)。

でも、そういうことはちょっと前までは、各自の「匙加減」に帰する問題であるかのように扱われてきた。

そういう意味では「いい時代」になった、ということでさえあるのかもしれない、ある意味ね。
だから、
「悲惨な現実によって傷つかなければヒトは生きることさえできない」
とは必ずしも思わないけれど、そうなってみないと「そんな風にしてもなおヒトは生きる」ということには気づかないっていうことはある。

そして、
「そうなっちゃった」
のだね。

さて、3ヶ月後の「今」から、いよいよ改めて問い直しをしなければならない事柄が出そろってきた感、があります。

また、ぼちぼち行きます。



震災以後を生きる(7)

2011年06月11日 08時41分21秒 | 大震災の中で
例3「コト」
日常、私たちは安定した社会基盤の上で極めて多様な生活を営んできた。その中では、数え切れないほどの人間の営みが、複雑多岐にわたって網の目のように張り巡らされ、関係づけられていた。

ところが、大震災以後三ヶ月になるのに未だ職場の建物には水が来ない。

2ヶ月経ってようやく近くの大学に避難し、仕事が再開された。気がつくと県内で最も始業式の遅れた学校の一つになっていた。

拝借した校舎は大学のキャンパスだから、被災校舎よりずっと広々していて、学食・コンビニもあるし、水もでる(笑)。
それでも次第に疲労は蓄積されていく。

高校という「制度」は、高校の校舎に依って成立しているのだと、つくづく分かる。
携帯電話の敷地内禁止が県内共通のルールだが、大学のキャンパスで生徒を呼び出そうとすると、携帯ナシには一仕事だ。「高校ですから」という校長の判断で携帯使用不可は従前通り。

しかし、大学生のように掲示板に張り出して後は自己責任、と言うわけにはいかない。
結果として、担任が大量のモノを抱えながらキャンパス内を走り回ることになる。スーパーの買い物かごか、リュックサックか、両手にトートバッグを提げるか。

まあ、そんなことはたいしたことじゃない。

大学側から正面広場で「缶けり」をやっている生徒がいて困るというクレームも、どうということはない(笑)

被災した間借りだから教室数も限られているし、小さい教室は限られている。だから、一クラス120人のHRになっても当たり前といえば当たり前だ。

しかし、社会的な出来事の制度である「高校」は、そこでは成立しない。

大学生と一緒に生活できるのはすこぶる面白いのだが、「制度」としての「高校」はまるっきりそのままだから、そのギャップは、我々が今まで蓄積してきた身体のありようを改編することで吸収していくより他に手がない。

全員が五月病になる、なんてことはないけれど、ボディブローのようにそれは「微細な裂け目」
として刻まれていくだろう。

無論高校生にとっては、全どんな変化も全ては貴重な経験になる。

しかし、役人たちの右往左往と、環境変化と、従前通りという管理職の発想と、仮住まいの不自由とが次第に自分の心身をきしませはじめているのが分かる。

被災だから。
面白い面もあるから。
そのうち(二年かかるか三年かかるか)新しい校舎ができれば落ち着くから……。

もしかすると、社会の出来事は、こんな風に断層を折々に経験しながら不可逆な変化を被って行くのかもしれないと思う。

ただ、今はまだこんな一見のんきな話をしていられるが、一年後、二年後、彼らの進路選択時に直面することが確実な困難については、漠然とした予感を生徒も保護者も、そして教員も抱えたままだ。

正直今は今を乗り切るのに精一杯で、そんな先のことを考える余裕はない、のが実情だ。

本当に私たち教員が一刻も早く共有しなければならないのは、服装指導のマニュアルじゃないことだけはたしかなんだけどね。

社会的事象平面の基盤が破壊され、その後もフィジカルな地面とともに、グニャグニャ揺れ続けている。加えて放射能飛散のトッピングがあり、風評被害があり、企業の撤退の危険も課題になってきている。

雇用の喪失→収入の途絶→就学困難

の負のスパイラルは目の前ではないのか?

問題はだから、足元から揺らいでいる、という現実の上に、社会的な「コト」を営まねばならない「揺らぎ」の不安定さなのだ。
それは、「地面」が不安定だというだけでは済まないのです。



震災以後を生きる(6)

2011年06月11日 01時26分58秒 | 大震災の中で
被災地では全てのモノが引き裂かれている。
何度も繰り返すが、それは大まかな
「人為と自然」
というふたつの区分、つまり二元論的な対立の二極に分裂しているのではない。

そういう大雑把なはなしをしていくと、下手をすれば人為=西洋文明vs自然=日本の精神文化みたいなスットコドッコイの見解を招来することになっちまいかねない 。

原発賛成派と原発反対派
でもいいけど、たのむからそういう単純明快な話は、やめてほしい。

例えばね、私たちが被災地で不便な生活を強いられているってことは、その場所において具体的に幾重にも裂け目が入った
モノ・ヒト・コト・トキ
を多重に生きさせられていることなのです。


例1「トキ」
先に進めばいいじゃないか、くよくよ震災以前を振り返っても仕方がない
vs
なぜ自分だけがここにいるのだろうあのときに失われたモノヒトコトトキをどうあつかえばいいのか

私達はこの二つの「時間」を同時に生きなければならない。
どちらかを選ぶわけにはいかない。

死の中で生を、生の中で死を思うことでしかモノを考えられない。

引き裂かれた生を生きる、というほど大げさなものではないのかもしれないが、単に参照すべき過去の出来事とするにはことが大きすぎ、同時に微細なところまで入り込んでいる。

それは異なった立場の対立関係というより、そのトキのズレをさまざまなレベルで、同時に、身体の「中/外」に抱えつつ生きる、と言った方が実状に近いのではないか。



例2「モノ」
福島県の原乳出荷制限が解かれた。
他産地のものとブレンドされたら分からない、と危惧するTweetがあった。
福島産のものはそんなに危険か?
といいたくなる気持ちと、自分自身も原発事故に伴う放射能汚染を心配している気持ちとに引き裂かれる。
そして、ここが重要なのだが、引き裂かれるというのは、二つの立場があるというのではない。福島の産品に対する思いは、福島の名を生きるものとしては、分裂したり二つの立場になったりはしない。

福島の「名」をもって生きるものそれ自体が
裂け目(=聖痕)
であり、それを生きることにならざるをえないのだ。

原発推進か、反対かなんて話じゃないのだ。それをいえばむろん反対さ。それはそうだ。福島はメチャクチャになっていくのだから、これから更に。

でもね、福島産のモノは、それをいえばいうほど徹底的に排除されるでしょう?
それは私たちが生きること自体が否定されることでもあるのです。

復興というのは私にとって、この
「人為」=&≠「自然」
という二つにまたがった傷を、ブロッコリーも、校庭の砂も、人の暮らしも、全てがその亀裂を刻印されて生きているということを、人々が受け止め直せるようになる、と言うことを意味している。

そんな日が果たして来るのだろうか。忘却装置が作動するのを待つほうが手っ取り早いのではないか?
そういう思いさえ胸をよぎる。






放射能に汚染されたがれきをどうするか、といえば……

2011年06月09日 21時45分27秒 | 大震災の中で
汚染の程度はさまざまあれど、福島県内で放射能に汚染された瓦礫をどこに持って行くか、といえば、とうてい福島県以外の場所に移設することは考え難いだろう。

ま、世間とはそういうものである。
「日本は一つじゃない」なんてこんなところでひねくれるつもりもないが、NIMBY(Not In My Backyard)問題の典型例として後世に残るんだろうな。

研究者諸君、頑張ってください。

とはいえ、生活をしている我々にとっては焦眉の急、喫緊の課題、存亡の秋、火急の問題、である。

瓦礫とか農業漁業の生産物については
「えんがちょきった、カギしめた~っ」
と言われてしまうのはやむを得まい。

別のニュースでは、福島県北部のブロッコリー出荷制限地区の生産者が、県中産と偽って、県産品応援のイベントにその出荷停止のブロッコリーを出荷、40個が売れちゃった、と報道されていた。
まいったまいった。
突然「えんがちょ」=放射能をこすりつけられたその県北の生産者にしてみれば、青天の霹靂というか、不条理の十字架を背負わされたというか、「なんでおれらの丹精込めた野菜が」という悔しい思いがあるだろうね。

それを応援イベントに偽って出荷し、イベントごとぶちこわすという多重の不幸再生産。

これからこういうことは次々に起こっていくのじゃないかな。
起こらないとすれば、人が生産の現場から立ち去ることによって収束していくのかもしれない、とさえ思う。

正直、ことしの夏から秋、だれが果物王国福島の果物を購入してくれるというのだろう?
毎年のように大切な知り合いに送っていた桃やリンゴを、今年は「普通に」贈れるだろうか?
来年は?再来年は?

不思議なことに、あまりの理不尽さゆえにか、「憤り」を噴出させることにはなかなかならない。

一度憤ってしまったら、今自分の前に与えられた世界を一挙に拒否することになる。
そしてそれは、非常に不安定な今の自分たちを、ますます追い詰めていくことになりかねない。

他人のことは分からないけれど、私がここ福島で日常生活を営んでいるのは、
「冷却作業に失敗して、もう一度原発が爆発し、風がこちら側に吹いたら終わりだな」
とお互いに笑いながらも、ここを去ってしまったら、止めどない「原発流民」が発生するのだろう、ということに自分の想像力がついていけないからかもしれない、と思う。

あり得ないことが起こった、その後を生きる、というのは、思ったよりいろいろ複雑で大変なものなのだ、とじわじわわかりはじめている。

「人災だ」
と責任を追及する報道などを観ると、徹底的に検証はしてほしいと思う一方で、、犯人捜しのようなトーンを発見すると、少なからず「いらっ」とさせられる。

犯人なんて探さないで、という優しい前向きの気持ちでは無論ない。

いったんバックドラフトのように収まりかけた心の中の火が再度着火したら、もう、この不安定な被災=避難の中で不安定な安定を求めて日常をまさぐっている自分たちの基盤それ自体が不可逆的に「壊れて」しまうことを怖れるからかもしれない。

現在進行形の心の動きは、陽炎のようにゆらぎつづける。
像を確定すれば、すぐに嘘が混じってしまうようで、それも切ない。

ただ、それでもこうやって日々日記を書き続けているのは、いつか、公共的なる基盤を再構築して、そこで「今」を振り返った時、考え直すための「資料」を残しておきたいからだ。
事件の記録、ではない。
自分が生きていることやその基盤自体が不確かになってしまっているからこそ、掻き傷のように、表面に爪を擦りつけておきたいのである。








線量計を購入した。

2011年06月07日 22時08分13秒 | 大震災の中で
今更ながら、ネット通販で線量計を購入した。

週末千葉の幕張のホテルに泊まったのだけれど(ディズニーランドではありません)、いわき市内の自宅と幕張のホテルの線量が同じ。
これはこの機械の精度の問題か?
それとも、けっこう太平洋側、油断ならないのか。
0.12μSv/hですから、低め、ですけどね。

一応、職場の地面に近づけると0.4μSv/h(室内は0.14)ぐらいになるから、機械は作動してると思う。
家の庭の地面では0.35μSv/h。
土の地面は室内の2~3倍ですね。

同じいわき市でも北部のホットスポットでは、高線量が測定されているとも聞きます。
しばらく携帯していろいろ測ってみます。


福島大学の要望書

2011年06月06日 23時51分31秒 | 大震災の中で
福島大学の准教授たちが、福島県に7項目からなる要望書を提出。
県民の常識的な願いを代弁するものだと思う。

http://fukugenken.up.seesaa.net/image/E8A681E69C9BE69BB8ver8.pdf

詳細は上記へ。
概略、前半は安全を強調するアドバイザー選定の問題点を指摘。危険性を考慮に入れるアドバイザーも参加させよ、というものです。
後半は、被曝をを1ミリシーベルト/年に近づけるよう逓減策を講じること、線量測定のきめ細かい対応です。
モニタリングポストの拡充
ホールボディカウンターの県内病院への設置
ホットスポットマップの作成
線量計配布など。










NHK ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図」続報

2011年06月06日 01時34分43秒 | 大震災の中で
6月5日午後10時からETVで
NHK ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図」
の続報が放送された。

第一原発敷地外からもプルトニウムが検出された。
避難準備地域からも30キロ圏内からも外れているいわき市内でも飯舘村と同レベルのホットスポットが観測された。

その二点が大きなポイント。
こういう活動をしてもらえること自体がありがたいし、こうして報道を続けてもらえることもありがたい、と被災地の一人としとして感謝したいです。また、いわき市民としても現状把握のためには、もっと細かく線量の測定をしていかねばならないのだ、と改めて感じました。

その時間帯の前のNHKスペシャル
「シリーズ原発危機」第1回「事故はなぜ深刻化したのか」
と併せて見ました。
こちらも検証としては重要な仕事だと感じますが、題名の問いに対する答えが十分与えられた印象はありませんでした。

だれか別の人間や別の組織だったら、もっと「深刻化」を防げたのだろうか、と考えた時、答えはかなり否定的なものにならざるを得ない。

こりゃあ、この現状ではこれ以上できたかどうか、かなり難しいなあ、という思いを持ちました。

あ、もしかして、そういうことが番組の目的だったのかな?(苦笑)

もちろろん、安易に大雑把な近代文明批判とかされてもなあ、とは思います。
そういう意味でたとえ事後的ではあっても、検証報道をぜひ継続的にお願いしたい。
あるいは、データの測定を継続的に行い、それを報告してほしい。
私たちが考える材料、はあればあるほどいい。

そうそう。

一点だけ、問題を感じたのは、危機的状況の真っただ中、官邸が情報の正確性、妥当性を選択してから出そうとした瞬間の官邸内での様子を証言していた寺田さんだったかのコメントでした。

重要な政策決定を必要とすることであればあるほど、その前提となる情報の妥当性が問われることになるのはわかります。

でも、原子炉の制御が失われつつある非常に危険な状況だ、という認識がすでに官邸の中にあった以上、住民自身が危険を判断する材料は、最大限その被害の当事者に、積極的に提供すべきでした。

決してデマでも垂れ流せ、というのではありません。
けれど、単なる情報統制は結果として避難が遅れる。
こういうときは、安全側に振った対応を明確かつ迅速に発信すべきだったのではないでしょうか。

この時点で、浪江→飯館→福島という風の流れの予測が出されていたら、被曝のリスクはずっと低くできたのではないか。その疑念がぬぐえません。

信頼性の低い情報ではあってもその程度に応じて国民は、その不確実さとリスクを判断しつつ行動できるように、速度と確度をマネージメントすることは、技術的にもう少し高いレベルでコントロール可能だったのではないでしょうか。

東電はこういう危惧を抱いている。官邸はこんな悲観的シナリオを想定している。保安院はここを心配している。原子力安全委員会はこういう提案をしている。

すべてを垂れ流すことがいいのかどうか、は議論があるだろうこともわかります。
でも、飯館村を「安全」と言い続けて、結果として被曝を十分にしてから避難になった一連の経緯をみると情報の扱い方に「人災」の匂いを感じるのは止められないように思います。

お墨付きの情報でなければ行政は動けない。

この現実は、役人の末端にいる人間としてはよーくわかります。役所は、たとえどんな緊急時だって、「わからない」うちは動けない。それも当然。

でも、情報は違う。
質のよい?お墨付きの情報だけではなく、「予測」ではあっても、提示は可能だったろうと思う。

以前ここに書いた被災生徒の転校に際する教科書再購入の補助も、隙間を埋めるには行政って、時間がどうしてもかかる。
行政ばかりではない、ドキュメントの中での東京電力の対応を見ていても、絵図面のあらかじめ描けている場合はつよいけれど、緊急時にはどうしても「最速」モードにはなれないのだ。

私たちは(超緊急時の場合ですよ)、お墨付きの情報をただ受身的に待って、その結果知らないうちに被曝していました、という事態を迎えるのであれば、むしろ、ガセ情報に流されてパニックを起こすリスクを自分たちで管理するから、確かさの程度の低い「予測」や悲観的「シナリオ」であっても、提供してほしい、と思う。

それが「知的生命体の業」(梅棹忠夫?)の「欲望」に沿ったリテラシーにも繋がるんじゃないかなあ。

1,情報の確認に手間取る
2,庶民のパニックを怖れる
3,組織として意思決定に手間取る
4,組織間の情報確認・意思疎通が機能不全に陥る

といったことを感じましたが、とにかく、無事に生き延びさせてほしい。情報統制をして市民を釘付けにして、被曝量を増やす結果となるのは、これ以上ない「最悪のシナリオ」だったと思う。

情報をもっとオープンにした結果、不都合が起こることは十分危険性としてありえる。

でも、これはとても実は「原理的」なことであって、官僚や企業や行政側だけが「不確実な情報」をたくさん握っていて、取捨選択検証をしてから市民に提示するっていう流れは、もう決定的にダメ、なんだと思うなあ。

そこはとっても難しくて、情報を丸投げして「ひとりひとり」に責任を負わせればいいってものじゃないからねえ。ま、情報なんて今は「丸投げ」もできないほど様々なデータが蠢き続けているわけだし。

情報の評価は必要だし、その評価についての評価も必要。
正しさとか正確さは、緊急時にはむしろその無限遡及に行きがちだったりして。

決断するのは不確実だから、なわけだよね。

だったら、その不確実さをいったん受け止めた上で、根拠なしっていうんじゃなくて、不確実ながらも情報を可能な限り受け止めて(分析検証はずっと後になってからしかできない!)、その上で決断を下していく必要が、大きなレベルでも小さなレベルでも必要になる。

ぎりぎりのところでは、共通の大きな闇みたいな課題と向き合いつつ、情報の共有も目指しつつ、行動を素早くやるには各自の「てんでんこ」をあてにするしかない。

そういう時、例えばの話だけれど「官邸が」「東電本社が」「本社社員が」「菅首相が」評価決定を下すだけでは足りないんじゃないかな。

そういう垂直統合型の「文明スタイル」の見直しの大きなポイントの一つが、「情報」の扱い方にも現れているのだ。

話を最初に戻すと、
NHK ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図」続報
の番組に出ていた研究者たちは、放射能汚染の「問題性」を強く認識しているからこそ、福島県内の汚染測定を継続的に行ってくれている。

それはその科学者の価値判断が加わった研究作業には違いない。

他方では、

「そんなもの測らなくたってプルトニウムなんて微量に決まってるし、ホットスポットとかいっても、もう3月中旬の飛散で決定づけられたものだから、あとは線量は増えないさ。今となっては冷却安定化が肝だ」

という「現実的」な考え方もありえるのだろう。

でも、その被曝した場所に住み続ける者は、前者の測定しつづけてくれる研究者と、後者の「現実的」考え方とを比べれば、断然前者を支持していくに違いない。私もその一人だ。

なぜって、後者は私達になんの知見も与えてはくれないから。
むろん、判断は各自がするしかない。
そう判断する人がいるのだろうな、という「情報」にはなる。

でもさ、危機的状況では瞬間的に「てんでんこ」の判断をするのが大事。

そのためには判断の前提となるデータを地道にを取ってくれる人が必要。
そしてそれには、そのデータの意義に価値を置く研究者がいてくれないと非常に困る。

さもなければ私たちは知らずに被曝しつづけるリスクを「無知」とともに背負うことになるから。

仮に全く安全でなんの問題もなければ、たしかに科学者の業績にもならない。
そういう意味では、科学者たちも、自身の業績が上がる可能性が全くないボランティアでやっている人ばかりだとは思わない。

危険がそこにあるから研究者が寄ってくるのだろう、ということは分かる。
図らずも、モルモット扱いになりかねない、ことだって分かる。
線量を測ってもらったからといって、何か現状がただちに改善されるわけでもない。
高ければいられなくなるだけだからね。むしろもっと大変になるかもしれない。

そんなことまで心配した結果(要らぬ心配をしてくれて)、政府は20ミリシーベルト/年以下までの蓄積線量は大丈夫、なんてお墨付きを与えてくれたけれども(苦笑)。


そういうことぐらい、ネット上のことではなくてもメディアリテラシーとして考えることはできるし、判断もできる。

でも、それでも、私達は可能なかぎり正確に「知りたい」のだ。

「知的生命体の業」(梅棹忠夫)

が原発を推進させてしまったように、その事故の結果についても、今はもう単なる「神様の思し召し」としてだけ済ませるわけにはいかない。

事故後に人間が生きるためには、観測データが必要なのだ。
知ってしまったからには後戻りはできない。
もはや知的に材料を踏まえてでなければ私達は行動できないのだから。

その理性的科学的なアプローチをつづけつつ、一方では根本的な「人間観」・「自然観」が問い直さねばならないこともまた確かなのだけれど。

この項目もまだまだ続く話です。








今日、高校生の音楽発表を聞いてきた。

2011年06月05日 23時56分12秒 | 大震災の中で
今日、高校生の音楽発表を聞いてきた。

被災のために予定していた会場が借りられず、大学の体育館を貸してもらっての演奏会だから、決して音にとっては最適の環境ではない。

必ずしも十分な練習ができていない学校もあるだろう。
また、参加した合唱部はわずかに5校。市内には高校が十数校あるから、1/3程度にすぎない。

そして最初の演奏は、わずか5名、二曲の演奏だった。
正直、お世辞にもうまいとは言い難い演奏(ごめんね!)である。でも、一所懸命生徒も演奏し、指揮の先生も懸命に振っていて、何よりも、音楽好きな高校生たちが一堂に会して、その声に耳を澄ませていた。


そうしたら、不思議なことに聞いていて涙がこぼれてきてしまったのである。

それは、震災で情緒が不安定になっていて、心が揺れやすいせいかもしれない(苦笑)。
あるいは、人数少ないのに健気だな、と同情したのかもしれない。
もしくは、昨日一日中遊んでいて、少々疲れていたのかもしれない。

でも、たぶんそういうことだけじゃないんじゃないかな。

昔(今も御存命かと思いますが)皆川達夫という合唱界の重鎮がいて、コンクールのときに、高校生の演奏を聴きながら涙を流す、という噂があった。

今日はハンカチの濡れる回数がちょっと少なかった、とかね。

まさかね、と当時合唱部の部員だった高校生の私は思っていた。
「だいたい、高校生のへたっぴいな演奏を聴いて涙を流すっていうのは、せいぜいいって「比喩」か「お世辞」あるいは心が過敏になってる病いじゃね?」
ぐらいのことは考えた記憶もある。

私はその程度に鈍い者だった、という話なんですが。

今はしかし、生の「肉声」の声による歌が、本当に心に沁みる。

私の中に、私の身体が、私の心=体が、歌の記憶を抱えていて、しかもこの大震災以降、心をガチガチに固くすることで「生き延びて」きたその凍結していた心=体が、肉声の演奏を聴くことで、溶け出してきたからなのではないか、と感じるのです。そして、

「私は歌手だから」

先日、このブログで、という「歌手」の言葉に対して、いいがかりのようにぐずぐず言っていたことの答えが見つかったような気がした。

やっぱり、闇を抱えてたたずむヒト(私を含めた)にとっては、「歌手」が歌うのではなく、
目の前で「歌うことによって」、目の前で肉声の歌に耳を傾けることによって、
ヒトは歌うヒトになり、同時に歌を聴くヒトになるのだ、と。

ヒトは、大きな自然=文明の洞穴のようなものの傍らに立った時、見えるもの、聞こえるものからもう一度世界への回路を開きなおしていくよりほかにないのかもしれない。
歌は、音楽は、そして多分、朗読でも演劇でもそうだと思うけれど、「完成形」のクオリティとは別に、地面から立ち上げていく、体から響かせていく、その声や身振りによって、ヒトに触れ直す「力」を持っていて、それはやっぱり身体のの側が担うものなのだろう。

高校生の演奏は、そりゃあそれよりうまいプロのと比較したら下手もいいところだ。
でも、最初は緊張して声が出なかったり、ピアノのテンポが走って指揮者が慌てたりしていたって、その先に「ふと」素敵なアンサンブルが成立する瞬間が立ち現われる。

確かに十分にコントロールされたプロの演奏を聴くのは、心地よい経験だ。
素人の私にとっては「まるでCDのようなライブ」(笑)、みたいな印象を抱く演奏だってある。

でも、それだけじゃないんだな、やっぱり。
上手下手じゃないっていうか、そっちの方向の楽しみじゃないっていうか、この場所でハーモニーやリズムを共有しているっていうライブ感だけでもなく、その「肉声」がこちらの闇をくぐりぬけて届くっていう出来事があるのだと思う。

それもまた、受け手である私の「情緒不安定」の結果なのだろうか。
それとも35年の時を隔てて、皆川達夫さんのハンカチ一枚程度には、音楽に近付けたことになるのだろうか。
たぶんその両方かもしれない。

こういう振れ幅の大きい体験の中では、普段は鈍い感覚が、素人でもアマチュアでも庶民であっても研ぎ澄まされるということがあるのだ。

それは、不幸は簡単に語れないということでもある。

大地震・大津波・原発事故による被害

人生の中でそう何度もは経験しない「恐ろしい事態」の傍らに立つことで、明らかに私たちは日常の理性という忘却装置に支えられた場所からつれだされ、不安定な地面と状況にさらされている。
でも、考えてみれば、どちらが本来的な場所でどちらが非現実的な場所なのか、は簡単には決められないような気がする。

今日の彼らの歌が私に与えてくれた「モノ」=「こと」を、夜になっても感じ続け、考え続けている。











震災後を生きるということ(その5)

2011年06月05日 23時04分45秒 | 大震災の中で
相馬市出身の同僚の実家は松川浦(海苔の養殖などで有名)にあるのだが、家が津波に押し流されてしまった。
そこには松川浦大橋という海沿いに掛けられた橋があるのだが、その橋の上に避難した人も流されてしまったという。

被災後の大橋の動画はこちら。
http://m.youtube.com/#/watch?v=r4U0x8p-jGk

潮干狩り、海苔の養殖、イチゴ狩りも盛んだったという場所だが、国が許可しないためもはやそこ(自分の土地)には家が建てられないのだという。

今朝の新聞で、移転を余儀なくされた地区の商業施設移転には、住宅の移設・移住と同等の9割補助を出す、という政府の計画が出されていた。

新たな場所で、一から町を作っていかねばならない苦しみは、私たちの想像を越えた困難があるだろう。

どうか、知恵を出し合って、皆さんが持つ潜在力を十分に出せる仕組みを工夫し、
「あの災害があったからこそこの素敵な町ができた」
となりますよう。

そういう営みの中で初めてヒトは人間の世界を作って行くものなのだろうし、その営み以外に人間を人間たらしめる力はない、のだろうから。



震災後を生きるということ(その4)

2011年06月04日 14時39分54秒 | 大震災の中で
こんな風に考えるのは、入院先で寝たきりになった父親が、どんどん見当識を失って行くのを、大震災と同時進行で目の当たりにしたことが大きいのかもしれない。
彼は最後まで「家に帰りたい」と言い続けていた。

無論病人はふつう誰でもそういうものなのかもしれない。私は別荘気分で結構楽しかった記憶があるが、それはあくまで帰る場所があったから、なのだろう。

ともあれ、彼はもはやもとても帰宅できる状態ではなかった。そのとき帰りたいと語り出される「家」は、彼の、失われていく記憶の海原の中に時折現れる幽霊船のようなものにすぎない。

かれが人生の最後の何週間か参照していたのは、もはや彼の未来にとっては存在しない、しかし過去の記憶の中でもっとも大切な「家」である。

震災以前に存在していて震災後には決定的に失われたものの「記憶」を考えるとき、私にとって、この父親の最後を看取るときの体験と震災とが、強くシンクロし続けている。


それは、失われたモノは戻らないという喪失体験を隠蔽し、回復可能な傷であるかのように捉えなおして適応しようとする心の中の「勢力」と、忠犬ハチ公的に失われたモノをいじらしくも待ち続ける身体の中の「姿勢」と、二つの身振りを同時に拒否しようとする強い反発の核にもなっているようである。

死を迎えようとする病人にとっては、病院は二度と生きて出ることのできない最終的な収容の施設だ。
症状が進行してしまっている以上、家にはもう帰れない。
しかし、震災後に、病院閉鎖の危機が迫ったとき(結果としては最後まで医師に看取ってもらうことができて幸運だったのだが)、

「今、物資が全く届いていません。看護士さんの通勤のガソリンも確保できません。もし万一病院が閉鎖になったら、お父さまの今の状態では避難することもむずかしいでしょう。退院するということになれば、後はご自宅で、ということになりますが、そうなれば最後を看取ることはできなくなってしまいます」
というアナウンスを受けたとき、
「ああ、そうなんだ、彼は病院でなんとか生かされているんだな。そして私たちも」
と改めてしみじみ感じたのだ。

父がたまたま最期の時を、被災した病院の中で迎えた、というだけのことかもしれない。
そして私はたまたま彼を病室で看護しながらあの3/11を迎えただけのこと、なのかもしれない。

偶然と言えば偶然にすぎない。

しかし、私はそのときそこに、神さまなき身の上ではあるけれども、死と向き合う父親と、大きな崩壊をもたらす大震災と、その後に起こった原発事故との三つの出来事によって、まちがいなく「生かされている」という感覚、いわば聖なる痛みの刻印を受けたのだと思う。

その「場所」から見ると、「災害復興」を早く行うこと、というだけの方向性は、まるで原発をもう一度作ろうとでもしているかのような違和感を抱くのだ。


津波の被災地である海沿いの集落をまた敢えてそこに作るかどうか、あるいは放射能汚染を受けて避難した地域の人々は、一刻も早くそこにもどるべきものなのかどうか。

もちろん答えは簡単には出ない。
人為の側だけの地図を参照しただけでは、簡単には答えのでない種類のことだと気づかされてしまったのだ。

それは過去の津波を参照しろ、というレベルの科学的な話ではなくてね。

もちろん回復したい思いは痛いほど分かる。
欲しいのは特別なことではない。きっと、何の落ち度もなく暮らしていたあの日常をもう一度戻してほしいだけなのだ。

しかし、それはいくら正当なものであり、心情的には共鳴できるものではあっても、失われた過去の記憶に向けられた見終わらない夢であることもたしかなのではないか。

私は、あるいは穏当を欠いたことを書いているのかもしれない。

しかし、たとえ原発から20キロ圏の立ち入り禁止が解除され生活が再開されたとして、それが農業と漁業の旧態を回復することになるとは到底思えない。

長期的には分からないけれど、帰る場所が予め失われた「避難」、と考えるのが妥当だろう。

「もう一度」

と言う前に、収容施設に過ぎない避難所をなんとかしてほしい。帰る場所を失ったヒトを支え得る「生きる基盤」とは、どういうことなのか、どうかみんな知恵を絞って考えてください。

避難所、あれは一週間か二週間が限度です。
待って1カ月。
私たちが憲法で保障された健康で文化的な最低限度の生活以下だ、ということを、真剣に考えてほしい。
復興予算の捻出問題とか、法案成立とかいうレベルじゃないとおもいます。

失われた記憶なんぞにお金をかけるのは、実は復興とか言いながら、金を回せる奴らの発想だし、政治の発想に過ぎない、と、私は感じる。

失われたモノを慕う忠犬ハチ公的心情につけ込んで、復興を旗印に仕事をしようとする人たちと、新たな生への促しを支援することは、切り分けるべきではないか。

難しいのは分かる。
援助するがわはその区別はなかなかつかないかもしれない。


そして、短期的には援助の徹底が必要だ。現場の「難」を逃れた人を手当しないでどうする、ってことだ。

でも、それだけではいずれ立ち行かなくなる。
でも、持続的な支援は、経済的にも、環境的にも、文化的にも「回し続けられるもの」でなければならない。


では一体被災者は、これから何を参照しつつ「新たな生」を立ち上げていけばよいのか。

どう考えても「前と同じ」のはずはない。

また、関西まで逃げればよいと言われてもできない。受け入れるよ、と言われれば、ありがたいけどやっぱり無理だと思う。

繰り返しの再現前ではない、この土地における、差異を孕んだ反復。

生物的反応でもなく、動物的学習と反復でもなく、人間が作り上げた時間と空間の認識上に展開されてきた「人為」的世界像の再生・修復でもなく、できることを(場合によってはその場しのぎにみえるようなことであっても)、この場所で考え続け、行動し続けて生くにはどうすればいいのか。
相変わらず答えは風の中、か。


震災後を生きるということ(その3)

2011年06月04日 12時28分36秒 | 大震災の中で
例えば避難所の暮らしを考えてもいい。
食事一つ、いや食器一つ、トイレ一つとっても、出来の悪すぎる「キャンプ」生活だ。
それは、食器や食事、トイレにとどまらない。私たちそのものが、人為的な「自然」が失われた結果、全てがぎくしゃくした「意識」の上で執り行われている「お世話」の対象、オブジェクトとかしてしまっているということに他ならない。

避難所、という名前もよくない。
仮設住宅というのも名前が悪い。
実情は収容されている生き物の管理所だ。

だって、この大震災後には、避難から戻るべき場所は完全に失われている場合が少なくないのだから。

それはすでに「避難民」じゃなくて「難民」だろう。
原発事故による「難民」、津波による「難民」と、不謹慎を承知で国の中で、いやもとい、口の中で呟いてみればいい。


君が代歌ってる場合じゃねえ、と、余計なことまで呟いてみたくなるぐらいだ。

いや、戻りたいのは分かります。復興したいのも分かります。どうぞ頑張ってください。止めません。可能な限り援助もするべきでしょう。

でもね。被災民の端くれとしては、何を参照して「復興」というのか、が、個人的にはものすごく大きな問題なのです。

予算が付いて、ブルドーザーがはいって、建物を建てて復興景気に湧いて、箱物や住宅ができたら借金が残った……
そういう過去は参照しないのか、と。
農業も漁業も山間部の酪農も、置き去りにされてボソボソ地域に根付いてなんとかやってきた、それを再現すればいいのか、もしくはなんだかわならない未来都市の出来損ないみたいな街に「連れて行かれる」のか。

適応は、大事。
ある場合には失われたモノを参照したい忠犬ハチ公も必要でしょう。
一念発起して地図作りの旅に出た伊能忠敬のようなことだって「庭の外」にはあるのかもしれない。

「参照可能性」の限界を踏まえて、途中下車してじっくり考えることが、自分の大切な役割の一つなのかもしれないとも。
行き先の分からない電車に乗っている者としては、急ぐ理由が見つからない、のです。
「人為」=&≠「自然」
の裂け目を目の当たりにしていきる、ということは、
その多重化した
自動機械としての「自己」=「社会」=「自然」
を、ちゃんと瞳を凝らして見つめる格好の観察期間、だと思うんだけどね。

そこで「天罰」とか「神」とか口走る亀井静香や石原慎太郎の無意識過剰は、天皇の振る舞いに心が動かされることとどこかで通底してもいるのかもしれないね。
芸能人のみならず炊き出しとも。

でも実は、私たちはやはり、処理されるべき対象でもありつづけていたのではないのか?

主体たるべき自己とは、生活それ自体の
「人為」=「自然」
という空想のもとではぐぐまれた便利な「付帯機能」ではなかったのか?

ついでにそういうことも含めて考えさせられます。

聖なる痕跡を巡って、さらに妄想は続きますが。





震災後を生きるということ(その2)

2011年06月04日 11時47分37秒 | 大震災の中で
しかしその生物的な適応は長続きしない。というより、その反応は元来「緊急時対応」にすぎないのであって、長期化すれば、緊急の過剰な反応レベルは、低下していくことを避けられないだろう。

それは、生物的なレベルばかりではなく、社会的な学習のレベルでも共通している。

生まれ育った土地。その環境に対する「愛着」は、単なる「物神化」の結果ではないだろう。環境の中で学習し、適応し、それを継続的に蓄積してきた結果として「身に付いた」、意識に上らない基層として私たちの「生」を日々支え続けている。それはもはや幾分かは「自分自身」そのものでもあるのだ。
餌場はどこか、住処はどこか、社会的な振る舞いを学ぶ時空間はいつどこに現出するのか、学校で、職場でどんな身体性が要求され、どんな社会的身振りが必要とされるのか、そういうもの全てが、具体的な「空間分割」によって支えられ、強化され、人為によって支えられている。
そういう意味では、言い古されたことだがこの「人為に満ち溢れた」故郷は「第二の自然」でもあるのだ。

獣でもある人間は、第一の生物的基層ばかりではなく、この第二の社会=脳みその時空間分割を「自然」として生きているといっていいだろう。

だが、この「社会的な身体訓練によって作り上げられてきた第二の基層は、臨界期を持つ。音楽とか、言語とか、スポーツとか、愛情とか、学習とか、およそある種の個人的身体を伴った技術を必要とする社会的なことがらは、制度設計の面でも、身体適応の柔軟性からいっても、臨界時を持たざるを得ない。

「四十の手習い的」伊能忠敬モードはいつの世にも例外的に存在するが。

「成獣」となってからの新たな適応は、妖精=幼生の時よりも各段に難しい。
あとは、既に成立し、脳に刻まれた世界像とそれに対する「反応」のデータベースによって日々を事故なくドライブしていくことが出来る「はず」だ。ある意味、自分の作り出した「人為」に「動物的適応」をすることで、最適化してしまうという倒錯を生きることになる、といってもいい。

古今東西の文明はこのようにして滅んだのか、と隠居ジジイの感慨めいたコメントは不要だろうが、前提を自ら作り上げ、そこで「動物化」することによって「最適化」をはかるエンジンがどうしても働いてしまうのだね。

「時間と空間」の認識を前提としてヒトはヒトとしての「生活」を現実世界と脳みその世界と、同時に二重化して生きていく。考えてみれは当たり前、のことだ。
そしてその当たり前を自動的に運営してくれる人間の脳はなんと高機能なのだろうか、と感心もする。

しかし、その便利さは、諸刃の刃でもある。

その便利な脳の機能を駆使して、作りあげられた人為的事物が、次々に前提としてくりこまれ、参照可能な「第二の自然」として扱われて行くことになる。

その挙げ句に、私たちの中には、忠犬ハチ公的に帰らぬ第二の主人を待つ「犬」が私たちの中に立ち現れるのだ。

まちつづけるのは「主人」か、「自然」か「人為」か。存在しないものを参照しつづけるヒトの脳みそは、実は地震に怯える犬とどこがちがうのだろう、と考えてしまうのだ。


ちょうど家で飼っている老犬が、地震が起きる度に「この庭」からなんとか逃げ出そうとするように。あたかも目の前にある足の下の「この庭」こそが揺れてでもいるかのように。

本能ではない。

明らかに犬なりに思考と判断は機能している。しかし、揺れているのが「この庭」だけではないことを老犬は「知る」ことができないのだ。

なぜなら、犬が参照可能な脳みその記憶とそれに基づく判断を、私たちは書き換えてあげられないから。

「地震だよ落ち着いて」、と言うことばは、永遠に老犬には通じないから。うちの婆さんはいつも犬に毎回言い聞かせてるけどね(笑)。


そして震災後の「問題」はこの庭から飛び出しても、解決しないところにとりあえずの面倒くさい本質の一つがあるようにおもうのです。
「動物」である人間にとって「庭」はどこか?

次第にまた分からなくなってきたけど、この項続きます。(つづく)