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テレビの黎明期に少年であったわたしがよく見た外国テレビ番組はなんといっても 「スーパーマン」だった。「弾丸よりも速く、力は機関車より強く、空を見ろ!飛行機だ、ジェット機だ」とイントロのセリフが流行って一緒に口ずさんだものだった。ところが1959年6月16日に主演のジョージ・リーヴス(George Reeves)がショットガンで自殺したと報じられてスーパーマンが死ぬのかとドラマと現実を一緒くたにしてびっくりした。スーパーマンを演じるとほかの役をやれなくなるという話しを聞いてそんなものかと思った。
そして長じたわたしが米国で生活してテレビを見るとそのなつかしのスーパーマンのテレビシリーズをくり返しくり返し再放送していた。アメリカはスーパーマンが好きなんだなあ、と思っていると今度は映画化されクリストファー・リーヴ(Christopher Reeve)という新人俳優が主役に抜擢された。名前が昔のスーパーマンの役者と似ているなあ、と思ってハリウッドの封切り映画館「チャイニーズシアター」に見に行った。そして息子が生まれてから続編「スーパーマンⅡ」を家族で見に行くと息子は走行中の車の後部座席に立ってスーパーマンを気取っていた。男の子はやはり超人物が好きなのである。
ところが1995年5月27日、クリストファー・リーヴはバージニア州シャーロッツヴィルで乗馬競争中落馬し、脊髄損傷を負った。そして2004年10月10日に心不全により52歳で死去した。わたしを含めて「スーパーマン」を見て成長した世代はスーパーマン役者の行く末を不審に思い、人々の間で スーパーマンの呪いという伝説が囁かれたのである。はたして今後なつかしの「スーパーマン」は復活してリメイクされることがあるのか。あるとすれば「スーパーマンの呪い」伝説を知らない若い俳優が主役を引き受けた時なのだろうか。
fumio
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テレビが普及してわたしが一番好きだった音楽バラエテイ番組はやはり全国の家庭の日曜の夕食時の定番「シャボン玉ホリデイ」 だった。そのころ、おとなの漫画 という風刺ギャグ番組で有名になったハナ肇とクレージーキャッツが出演していた。わたしは番組のエンディングにザ・ピーナッツが歌う「スターダスト」が大好きだった。しかしそれが歌の前半を省いて最後の部分だけを歌っているとはまったく知らなかったのでのちに本物の 「スターダスト」を聴いた時「スターダスト」ってずいぶん長い曲なのだなあ、と的外れな感想を抱くことになったのである。東京都現代美術館が購入することになって価格が議会で問題になった"THE MELODY HAUNTS MY REVERIIE"とこの「スターダスト」の歌詞の一節をとって題された現代最高の画家のひとりと評されるROY LICHTENSTEIN (ロイ・リキテンスタイン)の作品がある。コミック雑誌のひとコマを素材にしてマイクを持って歌う女性のバルーン(吹き出し)の中に歌詞"♪THE MELODY ♪♪HAUNTS MY REVERIIE"を入れてあるのだ。この絵を見てやはり「スターダスト」は名曲と認識されているのだな、と思った。
fumio
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わたしが一番影響されたマンガといえば白土三平の「忍者武芸帳影丸伝」である。テレビの普及以前、庶民の娯楽のひとつに貸本 があった。銭湯の帰りなどに貸本屋に寄って娯楽小説雑誌やマンガ雑誌などを借りて帰るのである。そんな貸本マンガから劇画というジャンルを生み出す、さいとうたかをの「黒い子猫」や「台風五郎」シリーズがわたしのお気に入りだった。「街」や「影」といった劇画的マンガを掲載する雑誌が創刊廃刊を繰り返すうちに時代の要請か「少年王者」で一世を風靡した山川惣治の流れを汲む白土三平が紙芝居の絵から貸本マンガへ転進してきたのだ。かれの大作「忍者武芸帳影丸伝」の持つ思想性に学園闘争に明け暮れる当時の学生たちは圧倒され影響された。わたしは大名・武家や僧侶といった支配者層の弾圧政策に対する百姓、被差別民の解放運動、土一揆一向一揆に眼を開かれた。それをサポートする歴史の表には描かれることのなかった忍者達の影の戦い。1967年に大島渚監督が、白土三平の絵をそのまま映す実験的技法で映画化したのもうなづけた。実写で役者を使うよりリアルに伝わると考えたのだろう。
fumio
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わたしが米国で最も影響を受けた曲はわたしのホームステイした家庭でクリスマスにプレゼントとして買ってもらったイーグルスのアルバム「ホテル・カリフォルニア」のタイトル曲「ホテル・カリフォルニア」 だった。アルバムの曲は名曲ばかりでレコードの溝が擦りきれるほど聴いたが特に心に沁みたのはやはり「ホテル・カリフォルニア」のギターのイントロだった。のちに中島茂男(シゲさん)とクラブで一緒に演奏するようになった時、もちろんこの曲をレパートリーに入れた。午後9時から午前2時まで5時間の勤務時間なのだが一曲2、3分の曲ばかりやっているとなかなか時間が過ぎゆかない。この「ホテル・カリフォルニア」はそのまま演奏しても5分ほどあって、最後の演奏部分ではいくらでもアドリブで弾き続けられるので時間稼ぎに便利だった。不思議なことに歌うたびに歌詞の内容に即した映像が頭に浮かぶ。そんな歌は珍しい。そして土地柄か、 演奏するとお客さんが喜ぶし、あの頃わたしたちがクラブその他で一番よく演奏したレパートリーといえば「ホテル・カリフォルニア」ということになるのである。
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July 27, 1963
1 SURF CITY Jan & Dean
2 SO MUCH IN LOVE Tymes
3 EASIER SAID THAN DONE Essex
4 FINGERTIPS (pt. 2) Little Stevie Wonder
5 WIPE OUT Surfaris
6 (You’re The) DEVIL IN DISGUISE Elvis Presley
7 MEMPHIS Lonnie Mack
8 TIE ME KANGAROO DOWN, SPORT Rolf Harris
9 BLOWIN’ IN THE WIND Peter, Paul & Mary
10 PRIDE AND JOY Marvin Gaye
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最近のオーストラリアなどの動物愛護団体の捕鯨、イルカ、クロマグロ漁反対運動の推移を見ていると、わたしが高校時代 初めてキャッシュボックス誌のトップ10をノートに記録した週の第8位に Rolf HarrisのTie Me Kangaroo Down Sport という歌があったことを思い出す。それはカンガルーを倒す遊びを採り上げて問題提起する歌だったが高校生であったわたしたちはそんな歌の内容には注意を払わずこの歌のバックの面白い音を下敷きで真似したものだった。あれから50年ほどを経てオーストラリアが鯨その他の保護に熱心になっているのは興味深いことである。いつかかれらが羊や牛もかわいそうだから食べないようにしようと運動する日が来るのだろうか。
fumio
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米国で見た映画で最も感動したのは「The Wall」 である。
LATIMES紙に上のマンガのような不気味なイラスト広告が載ったのだが上映されるのはUCLAの映画館だけだった。イギリス音楽映画 なので配給契約館が少なかったのかもしれない。R指定ということで、一緒に並んでいる学生がわたしに券を買ってくれと頼む。未成年は家族同伴でなければ見られないのだ。見終わるとわたしはこんな素晴らしい映画を作る人々と同じ時代を生きていることに感激した。映画を見てそんな感想を抱いたのはその時だけである。
fumio
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大島渚監督といえば、大島渚監督の母校に京都市立洛陽高等学校という高校があった。現在は京都市立洛陽工業高等学校となっていてタレント島田伸助の実家の町のあたりに位置している。わたしが入った高校はベビーブーマーのために急遽新設された公立高校のため柔道部の道場がまだなかったのでその洛陽工業高校の柔道部まで自転車で出向いて練習した。そんなわけで大島渚監督はわたしの大先輩のような気がするのである。
そこで練習していると大学に行っているという先輩がやってきて上級生と新入生で試合をしろという。試合を始めてしばらくしてわたしの番がきて上級生を3人大腰で破るとその先輩が俺とやろうと挑んできた。さすがに強くて技をかけようとしてもかわされてしまう。必死で崩そうと動いたが崩れず頭を押し下げられる。しかたなくそのまま猪のように前進を続けたが先輩はその力を利用してわたしの襟をたぐり込んでいた。なにか苦しくてもがきながらふりはらってその姿勢から逃れようとしていると、意識が遠ざかった。幼い頃の思い出があふれ出す。イヤだったこと、夢で何度も見た景色、つぎから次に場面が変わる。自分のこれまでの一生を見ているようだった。自分は今どこにいるのか…。空中にいるのだろうか、やがて背中に衝撃が…。ふっと気付いて見まわすとまわりに上級生たちが集まっている。おまえ、気絶してたんやぞ、そこで休んどれと道場の隅に連れてゆかれた。背中が痛い。深く落ちていたので激しく活を入れたらしい。わたしはそこに座ったままどうしてそこに自分がいるのか考えていた。柔道の稽古に来ているということもわからずただ呆然としていた。それがわたしの意識がわたしの身体を初めて離れた体験である。その後首を絞められて気絶してもすぐに意識は戻り柔道の稽古であることは理解できるようになった。
人は死ぬ前に自分の一生を見るというのは本当のことと思われる。普段溢れないようにしてあるシステムが気絶によって外れてしまうらしい。前世の記憶もつながっているのかもしれないと思っている。
fumio
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その日、わたしたちはハリウッド地区の封切り館でその劇場を半周して行列していた。噂の 愛のコリーダ」が上映されるのだ。日本では検閲のためズタズタになって作品がまともに見られないという。作品自体は阿部定事件 を正面から真摯に扱っていたが人間の生殖行為をポルノとして規制の厳しい日本でありのままにそのまま撮影するということが大島渚監督のタブーに対する挑戦だった。一大プロモーション作戦の前宣伝によってあおられた人々が劇場のまわりを行列してまで見たのである。あの夜ともに並んだのであろうクィンシー・ジョーンズ(Quincy Jones)がのちに Ai No Corrida (愛のコリーダ) をリリースして大ヒットした時、クィンシーはそれは「I know Corrida」という意味だと思っているという伝説が囁やかれた。ロサンジェルスに住む日本人達はそれぞれうれしいような恥ずかしいようなくすぐったいような複雑な感情を抱いて映画を見てそしてディスコとなって歌われる「愛のコリーダ」というリフレインを聴いたものであった。
eumio
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日本で国際劇場といえば洋画専門館なのだがロサンジェルスでは日本映画専門館ということになる。そこで見た映画でもっとも印象的だったのは「蒲田行進曲」 だった。舞台は松竹蒲田撮影所のはずだがその背景の景色はわたしが京都の小学校の遠足で撮影所巡り見学に行った太秦の映画村あたりの風景だった。大映撮影所見学時、新人勝新太郎が遠山金四郎に扮して撮影していた記憶がある。わたしの通った銭湯には大友柳太郎が撮影後にやってくるという噂だったし、映画で描かれた大部屋役者やエキストラは街全体に溢れていたのである。なつかしいような珍しいような気分で日本映画黎明期のスターとその取り巻きの異常なようで当たり前のようなペーソスを秘めたコメデイを異国の地で見たのだった。日本で見ていれば違う感想を抱くかも知れないがわたしにとっては「蒲田行進曲」は本当に素晴らしい映画だった。
fumio
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ロサンジェルス市西南区クレンショー地区に「国際劇場」という日本映画専門館があった。新しい映画がかかると夫婦で見に行った。よく行くのでそのうち支配人と顔なじみになって料金を安くしてくれた。人気があるのはやはり「寅さんシリーズ」で普段それほど席は埋まらないが年に二回の寅さんの新作上映日だけはいっぱいになった。アメリカ人にも寅さんのファンは多くその人情喜劇は受けた。息子の友達のオクラホマの大学生たちは勝新太郎のファンで実際に会ったことがあるかとインターネットのチャットでわたしに尋ねてきた。かれはkitanotakesiというハンドルを使用していた。武道オタクで合気道の二段をとったと自慢していた。わたしたちの知らないうちに日本の文化は世界を侵食し繁殖している。政府の事業仕分けでまず削られるのはすぐに実績の見えにくい文化に関わる部門だが本当に世界を変えるのは武力ではなく文化なのだ。武力は表面を変えるが愛に基づいた文化は相手の内側から変える。手塚治虫の「アストロボーイ(鉄腕アトム)」のアニメのヒューマニズムで育った世代が現代の米国社会を支えているのである。
fumio
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その頃、世界の留学生を受け入れるロサンジェルスの公立成人学校では金曜の午後は教師は授業をせず各国の生徒になにかをやらせて楽しむことになっていた。順番にお鉢がまわってくるのだが、わたしの場合はもちろんギターを持ってきて歌ってくれと頼まれた。それで歌ったのは大好きなThree Dog NightのShambala や Black and Whiteだった。
「シャンバラ」とはもちろんサナートクマラが治める光の世界だが「ブラックアンドホワイト」のインクは黒でページは白というコンセプトはスティーヴィー・ワンダーとポール・マッカートニーのEBONY & IVORY に受け継がれ、そしてマイケル・ジャクソンは Black Or Whiteで見事にそのアイデアを結晶させたのである。多くの民族がそれぞれの特徴を認め合い融和しより高い次元へと進む。それは当たり前のことだけどなかなか実現できない。それゆえミュージシャンが同じコンセプトの歌をくりかえし歌うのだが宗教や互いの愛国心がぶつかって気がつくと諍いの中にいるのである。いつになればこういう当たり前のことを訴える歌を必要としなくなるのだろうか。
fumio
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昨日、3月2日は「将棋界の一番長い日」であった。
第68期A級順位戦最終局ということで
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郷田 真隆 九段 VS 三浦 弘行 八段
佐藤 康光 九段 VS 丸山 忠久 九段
森内 俊之 九段 VS 藤井 猛 九段
木村 一基 八段 VS 井上 慶太 八段
谷川 浩司 九段 VS 高橋 道雄 九段
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の対戦が行われた。対局は朝の十時から翌朝2時頃まで続いた。わたしたちアマチュアのファンも毎年楽しみにBS2でライヴ放送を見守る。日本で10本の指に入る棋士達の生の勝負の臨場感がすごい。夜12時を過ぎて終盤に入って秒読みの中で必死で指す棋士達の姿を見ていると本当にたいしたものだ、と思う。アマチュアは楽しみで昼休みなどに短い将棋を沢山指すのだが昔、わたしは会社で仕事のあとに坂田三吉の時代に活躍した中井捨吉七段が顧問のクラブで稽古将棋を指していた頃、数時間指しただけで頭が痛くなって困った。プロは一局の将棋を朝から晩までかかって指すのだ。それがどれほど大変なことか想像に難くない。
今年はダークホースであった三浦弘行八段がリーグ戦後半抜けだし昨日の最終局で名人挑戦権を獲得した。祝福して羽生名人との名人戦を見守ろう。気が早いけれど来期はこの熾烈な戦いの中にA級昇級を果たした渡辺明竜王と久保利明棋王が参戦してくると思うと今から楽しみになる。
fumio
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小学校時代、こんなことがあった。日頃、わたしはクラスでおどけてばかりいたのだが担任の女教師が突然怒りだしたのだ。「山下君、まだ、あやまりにいってないの?」
その前の週に保津峡というハイキングコースへの遠足があって着いた保津川の河原でみんなで川に小石を投げ込んだりして楽しく遊んだのだが翌日、仲の良いMという女の子が片目を腫らして登校してきた。担任がだれにやられたと訊くと山下君の投げた石が当たったと答えたのである。わたしは不思議に思った。そんな覚えは全然なかったのだから。近くにその子がいたことは覚えているけれどその子に向けて石を投げてはいない。だれかの石が当たったらしい。それでも先生はMの親御さんが怒っているから謝りに行きなさい、と言う。わたしは、どうしてぼくがやったと言うのだろう、と思いながらじっと黙っていた。次の日も、そしてその次の日も先生はわたしをなじった。わたしは、どうしたらいいかわからなかった。ぼくはやっていないのにどうしてあやまりにゆかなければいけないのだろうと先生の顔を見ていた。すると「女の子の顔に傷をつけたのは大変なことなのよ、お父さんについて行ってもらって一緒に謝って貰いなさい、」とすすめた。わたしはどうしたらいいかわからなかったけれど帰宅した父におそるおそる一緒に謝りにいってほしい、と頼んだ。「おまえが石を投げて傷つけたのか?」「さあ、わからへんけど、あやまらなあかんのやて。」
Mは寺の住職の子だったので父とわたしはその寺に菓子折を提げて謝りに行った。
翌日、女教師はニコニコして「山下君、昨日、謝りに行ったんやね、よかった」と喜んでいた。わたしは釈然としないまま、ただこれで先生に毎日責められなくなったと思っていた。
そして、数年後中学生になったわたしの家にMを初めとする小学校時代の女生徒たちが連れだってやってきた。女の子たちは応対に出たわたしの声を聞くと驚いた。雨蛙のような声がガマ蛙の声に変わっていたのだから。その頃、わたしは喉が痛くて辛い声変わりを終えていたのだ。浅田飴や龍角散をなめたりしたがかなり長引いた。声変わりが終了するとそれまでのボーイズソプラノが消え去りバスも出るようになっていた。女の子たちは明らかに会わなければよかったとがっかりして帰って行った。高音のクラスの道化者少年は王子様ではなく低音のガマ少年に変身して女生徒たちの夢をこわしてしまった。勝手に会いに来ず夢は夢のままにしておくほうが良かったようだ。人はどんどん変わるものだから。
fumio
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