農家は飢饉のたびに大麦を多く食べることで健康になったが、全く食べるものがないと大惨事になる。洪水、冷害の天明の大飢饉では食べるものがない東北地方の農家が生死をかけることになった。
米の増産をめざして、換金するための米作りだった。開墾で水田を増やし管理が手薄になり、裏作に大麦を作らないで換金作物を作っていたか何も作っていなかった。不作で少ない米はお金のために江戸へ送られた。そうして人為的に食べ物がなくなった。
農家にはお金があったかもしれないが、食物を求めて蕃から逃亡した。
裏作の大麦はこのころから農家の食糧でお金にならなかった。買う人がいない。蕃は売れる作物、換金作物を奨励した。誰も飢饉がおきるとは予想していないので換金した。蕃は借金返済するためだったので結局、現金がなかった。すべては現金のため。
米作唯一で裏作はお金になる作物。が、借金返済で消えた。
米沢蕃は改革がうまくいって飢饉を避けることができた。
米作唯一は危機的状況の時対応できない。今、裏作をしている農家は周囲にいない。裏作など必要ないし、第一経費を回収できない。損出をわかっていて作る農家はいない。
しかし、江戸時代の農家は自給自足の裏作をしていた。いざという時のためと、日常の食事のため。だが、そうではないところが東北地方にあった。願いは米の増産、不安定な米からの脱出、多産業の育成だったが、裏作をなくしたため飢饉になった。
現代でも、夏は冷害でも冬が冷害ということはないので冬作物で食糧維持。それは大麦がピッタリ。
飢饉の影響は翌年に出る。そのころ冬の裏作の大麦が収穫できれば問題ない。
現代では小麦と肉の輸入がすでに米の消費を上回っている。輸入でも世界的な需要減退で何の問題もおきないはずだが、すでに豪雨の影響で大洪水となりダムが機能しないところが大陸にあるのでわからない。とりあえず、好きなように作つけはできる。そして、増産できるようにする。
最近の冷害は1993年におこった。1993年7月1日は旧暦で5月12日だった。2020年7月1日は旧暦で5月11日だった。旧暦がほぼ同じ。旧暦では真夏だ。太陽歴で5月は田植が終わるころ。玄米ごはん族では種まきが終わるころ。玄米ごはん族は今年も冷害かーーー深水にしているので影響はない。冷害に極端に弱い品種が半分以上だが大丈夫。そうはいっても、たぶん、普通の農家が例年にない冷害を受けたレベル。
天明飢饉についてウィキペディアを見ると
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天明の大飢饉(てんめいのだいききん)とは江戸時代中期の1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉である。江戸四大飢饉の1つで、日本の近世では最大の飢饉とされる。
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経緯[編集]
東北地方は1770年代から悪天候や冷害により農作物の収穫が激減しており、ーーーーー
天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が、7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。
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日射量低下による更なる冷害をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じた。このため、翌年から深刻な飢饉状態となった。天明2年(1782年)から3年にかけての冬には異様に暖かい日が続いた。道も田畑も乾き、時折強く吹く南風により地面はほこりが立つ有様だった。空は隅々まで青く晴れて、冬とは思えない暖気が続き、
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背景[編集]
幕藩体制の確立とともに各地で新田開発、耕地灌漑を目指した事業が行われた。しかし行きすぎた開発は労働力不足を招き、強引に治水した河川が耕作地に近接しすぎることで、洪水を頻発させ生産量低下の原因にもなった。
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地方の諸藩は藩財政逼迫の折に、稲作の行きすぎた奨励(結果的に冷害に脆弱であった)や、備蓄米を払底し江戸への廻米に向けるなどの失政が重なった。大凶作の一方で米価の上昇に歯止めがかからず、
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当時は栽培技術や品種改良技術も未熟であったため、寒冷地での安定した収穫は困難であった。
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弘前藩[編集]
杜撰な計画が原因で天明初年の新産業政策が失敗し藩財政は困窮ーーーーー
盛岡藩[編集]
南部藩はそもそも生産性が低く気候条件も悪く、ーーーーー 天明3年、土用になっても「やませ」によって夏でも気温が上がらず、稲の成長が止まり、ーーーーー
八戸藩[編集]
南部藩の支藩であり、南部藩領よりも北方に位置し、小藩である八戸藩は本藩よりも深刻で、天明3年の収穫は実高から9割5分以上の減、翌4年も8割を超える減となった。ーーーーー
仙台藩[編集]
宝暦の飢饉の影響が回復する前に国役普請の莫大な負担が加わり、極度の財政窮乏状態を生じていた。ーーーーー
米沢藩[編集]
1767年(明和4年)より上杉鷹山による改革が開始され、宝暦の飢饉などの経験から1774年に備荒貯蓄制度を進め、飢饉時の事前・当事・事後の対応策が執られた。中でも天明3年8月には救荒令により麦作を奨励した。同時期の近隣他藩は江戸への廻米を強行していたが、越後と酒田から11605俵(領内人口約10万人が1日2合として約90日分に相当する量)の米を買入れ領民に供出した。
白河藩[編集]
当時の藩主松平定信は江戸幕府8代将軍徳川吉宗の孫であり、凶作が明らかになり打ち壊しなどの事態が起き始めると、余裕のあった分領の越後から米を取り寄せ、ーーーーー
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異常気象の原因[編集]
異常気象の原因は諸説ありーーーーー
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八戸藩の収穫[編集]
- 1782年(天明2)7,243石(表高2万石)
- 1783年(天明3)19,236石
- 1784年(天明4)16,457石(耕作しない) ーーーーー
1993年(平成5年)作況:平年比[編集]
- 東北全体56(収量304kg):青森28(下北0)、岩手30、宮城34、福島61(浜通り49、中通り南部51、会津82)、山形79、秋田83:北海道40、関東甲信85、栃木81、茨城87、新潟89、福岡・佐賀74、長崎・鹿児島75、島根79、山口80、全国74[13]
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