玄米ごはん族のあしたのたのしみへ

玄米と野菜、果物で今日から明日へ。農業と穀物菜食の日々

理解しても実行までは距離がある

2020-07-26 00:38:51 | 知識

 米沢蕃では、生産現場に必要なものは

一汁一菜の食べ物

木綿の着物

として藩主が見本を示した。

 現代でも通用する。木綿の衣類で作業してみようか。

 

 しかし、当時の山紫水明の環境はない。空気は何やら汚染され、井戸水でさえ飲めるかどうか検査するようになって、海も何やら細かいもので汚染されている。

 空気の汚染にはーーートラクターのエンジンからは微粒子が空気中に排出され汚染の原因を作っている。わかってはいるが。

 米沢蕃の藩主になった17才の若い上杉鷹山は一生をかけて領民の期待にこたえた。最初は無駄な支出のカット、次に殖産興業。それを支えたものが倹約の精神の表れとも言える、一汁一菜と木綿の着物だ。倹約して働くことが美徳となった。全員参加型の労働環境が殖産興業で整備された。

 倹約労働は負からスタートだから仕方がない。だが、あらゆる事柄が正の場合でたいへん順調に進んでいる時も倹約労働は実行できる。その場合、ますます正になるだろうと考えられ、間違っても負にはならないだろうと考えられる。本当にそうなるだろうか。

 

 当時の食べ物は無農薬、無化学肥料で作られたものだけだ。現代の木綿は農薬、化学肥料で育っている。当時の木綿の着物は人体に最適で、作業にも最適だったのだろう。同じものを手に入れることはできない。環境が違い育ちかたもちがうからだ。

 

 全国的に米沢蕃のように木綿の着物を奨励するとどうなるか。全国的に同じような奨励の元に倹約労働すると絹を誰が着ることができるのか、の疑問がわく。

 教えを守ったのは上杉鷹山だけで他の大名は教えを守らなかった。絹の需要は増えるばかり。

 

 

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六次化に必要な農産物

2020-07-25 01:52:06 | 知識

 国は六次化を推進している。穀物の加工販売もあるが、穀物でないものを選んだほうが歴史を見ると間違わないような気がする。

 江戸時代は、農家の商人化は禁止されていたが。

 

 米沢蕃は天明の大飢饉を被害最小で乗りきった。ものすごい蕃の借金も引き継いで17歳で藩主になった上杉鷹山の蕃政改革のおかげだ。改革は蕃の現状、改革の目的などフルオープンで討議され下まで藩主の考えが共有された。藩主自らが率先して実行した。

 一汁一菜の食事、木綿の着物ーーーーーー殖産興業で絹の布を作っていたが、ご自分は木綿の着物。徹底した倹約。藩主が着ないで誰がーーーーー

 絹は都市部の豪商が独占販売した。作っている農家はどうだったのだろう。やはり木綿か。

 蕃政改革で新田開発がおこなわれ石高も増加した。武士の二男、三男の帰農が進められた。全員参加で質素倹約で生産にはげんだ。鷹山は70才半ばで他界したが翌年に借金が完済された。すごい。

 

 現代の農業機械のローン利率は2%だ。上杉鷹山の時代は4から8%ということなので、はるかにきつい農作業になる。牛馬を使って農作業なので能率も相当悪い。余裕もなくなる。

 

 若い藩主は一汁一菜で体が健康になることを知っている。だが、木綿の着物では絹の良さなどわからない。

 絹織物は当時の最先端産業だろう。殖産興業なので、金を貸している豪商が欲しがっていて、見事に期待に応えた。全国的に有名になった。

 豊かになる、ということは、米、麦などの穀物以外のもので達成できる、という例だ。

 

 

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昔から非常食の大麦を日常食にしていた

2020-07-24 00:29:19 | 穀物菜食

 農家は飢饉のたびに大麦を多く食べることで健康になったが、全く食べるものがないと大惨事になる。洪水、冷害の天明の大飢饉では食べるものがない東北地方の農家が生死をかけることになった。

 米の増産をめざして、換金するための米作りだった。開墾で水田を増やし管理が手薄になり、裏作に大麦を作らないで換金作物を作っていたか何も作っていなかった。不作で少ない米はお金のために江戸へ送られた。そうして人為的に食べ物がなくなった。

 農家にはお金があったかもしれないが、食物を求めて蕃から逃亡した。

 裏作の大麦はこのころから農家の食糧でお金にならなかった。買う人がいない。蕃は売れる作物、換金作物を奨励した。誰も飢饉がおきるとは予想していないので換金した。蕃は借金返済するためだったので結局、現金がなかった。すべては現金のため。

 米作唯一で裏作はお金になる作物。が、借金返済で消えた。

 米沢蕃は改革がうまくいって飢饉を避けることができた。

 米作唯一は危機的状況の時対応できない。今、裏作をしている農家は周囲にいない。裏作など必要ないし、第一経費を回収できない。損出をわかっていて作る農家はいない。

 しかし、江戸時代の農家は自給自足の裏作をしていた。いざという時のためと、日常の食事のため。だが、そうではないところが東北地方にあった。願いは米の増産、不安定な米からの脱出、多産業の育成だったが、裏作をなくしたため飢饉になった。 

 現代でも、夏は冷害でも冬が冷害ということはないので冬作物で食糧維持。それは大麦がピッタリ。

 飢饉の影響は翌年に出る。そのころ冬の裏作の大麦が収穫できれば問題ない。

 

 現代では小麦と肉の輸入がすでに米の消費を上回っている。輸入でも世界的な需要減退で何の問題もおきないはずだが、すでに豪雨の影響で大洪水となりダムが機能しないところが大陸にあるのでわからない。とりあえず、好きなように作つけはできる。そして、増産できるようにする。

 最近の冷害は1993年におこった。1993年7月1日は旧暦で5月12日だった。2020年7月1日は旧暦で5月11日だった。旧暦がほぼ同じ。旧暦では真夏だ。太陽歴で5月は田植が終わるころ。玄米ごはん族では種まきが終わるころ。玄米ごはん族は今年も冷害かーーー深水にしているので影響はない。冷害に極端に弱い品種が半分以上だが大丈夫。そうはいっても、たぶん、普通の農家が例年にない冷害を受けたレベル。

 

 天明飢饉についてウィキペディアを見ると

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天明の大飢饉(てんめいのだいききん)とは江戸時代中期の1782年天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉である。江戸四大飢饉の1つで、日本近世では最大の飢饉とされる。

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経緯[編集]

東北地方1770年代から悪天候や冷害により農作物の収穫が激減しており、ーーーーー

天明3年3月12日1783年4月13日)には岩木山が、7月6日8月3日)には浅間山噴火し、各地に火山灰を降らせた。

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日射量低下による更なる冷害をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じた。このため、翌年から深刻な飢饉状態となった。天明2年(1782年)から3年にかけての冬には異様に暖かい日が続いた。道も田畑も乾き、時折強く吹く南風により地面はほこりが立つ有様だった。空は隅々まで青く晴れて、冬とは思えない暖気が続き、

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背景[編集]

幕藩体制の確立とともに各地で新田開発、耕地灌漑を目指した事業が行われた。しかし行きすぎた開発は労働力不足を招き、強引に治水した河川が耕作地に近接しすぎることで、洪水を頻発させ生産量低下の原因にもなった。

ーーーーー 

地方の諸藩は藩財政逼迫の折に、稲作の行きすぎた奨励(結果的に冷害に脆弱であった)や、備蓄米を払底し江戸への廻米に向けるなどの失政が重なった。大凶作の一方で米価の上昇に歯止めがかからず、

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当時は栽培技術や品種改良技術も未熟であったため、寒冷地での安定した収穫は困難であった。

ーーーーー 

弘前藩[編集]

杜撰な計画が原因で天明初年の新産業政策が失敗し藩財政は困窮ーーーーー 

盛岡藩[編集]

南部藩はそもそも生産性が低く気候条件も悪く、ーーーーー 天明3年、土用になっても「やませ」によって夏でも気温が上がらず、稲の成長が止まり、ーーーーー 

八戸藩[編集]

南部藩の支藩であり、南部藩領よりも北方に位置し、小藩である八戸藩は本藩よりも深刻で、天明3年の収穫は実高から9割5分以上の減、翌4年も8割を超える減となった。ーーーーー  

仙台藩[編集]

宝暦の飢饉の影響が回復する前に国役普請の莫大な負担が加わり、極度の財政窮乏状態を生じていた。ーーーーー  

米沢藩[編集]

1767年(明和4年)より上杉鷹山による改革が開始され、宝暦の飢饉などの経験から1774年に備荒貯蓄制度を進め、飢饉時の事前・当事・事後の対応策が執られた。中でも天明3年8月には救荒令により麦作を奨励した。同時期の近隣他藩は江戸への廻米を強行していたが、越後と酒田から11605俵(領内人口約10万人が1日2合として約90日分に相当する量)の米を買入れ領民に供出した。

白河藩[編集]

当時の藩主松平定信は江戸幕府8代将軍徳川吉宗の孫であり、凶作が明らかになり打ち壊しなどの事態が起き始めると、余裕のあった分領の越後から米を取り寄せ、ーーーーー 

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異常気象の原因[編集]

異常気象の原因は諸説ありーーーーー  

ーーーーー  

八戸藩の収穫[編集]

  • 1782年(天明2)7,243石(表高2万石)
  • 1783年(天明3)19,236石
  • 1784年(天明4)16,457石(耕作しない)     ーーーーー  

 

1993年(平成5年)作況:平年比[編集]

  • 東北全体56(収量304kg):青森28(下北0)、岩手30、宮城34、福島61(浜通り49、中通り南部51、会津82)、山形79、秋田83:北海道40、関東甲信85、栃木81、茨城87、新潟89、福岡・佐賀74、長崎・鹿児島75、島根79、山口80、全国74[13]

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プロアントシアニジンは脱落がすごい

2020-07-23 01:01:25 | 健康

 自然食品店でキラリモチを購入した。今まで購入したモチ麦は炊くと紫色にモチ玄米を変色させた。キラリモチは変色しないらしい。

 

 農研機構様HPのPDFから抜粋させていただきます。

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「キラリモチ」は、画期的な品質特性をもつ二条裸麦です。もち性であるため食味が優れ、機能性成分のβ-グルカン(水溶性食物繊維)がうるち性品種よりも 1.5倍程度多く含まれます。ポリフェノールの一種プロアントシアニジンをほとんど含まないため、炊飯など加熱調理後も褐変しにくい特長もあります。収量 性はやや劣りますが、従来品種にはない品質特性を合わせ持つことから、関係企業から注目されています。麦ごはん用に限らず、粉利用などによって高付加価値 食品の開発が期待されます。 北海道(春播き)から鹿児島県まで生産者による試験栽培が行われており、一部の産地では麦ごはん用やもち麦粉用など新規用途向けとして本格的な生産が始 まっています。

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プロアントシアニジンについても農研機構様HPから引用させていただきます。

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モチ性裸麦「ダイシモチ」穀粒におけるアントシアニンの蓄積

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ダイシモチ穀粒のアントシアニンは果皮に局在し、搗精歩留90%の搗精麦では全粒の約1/3しか残存せず、搗精歩留75%や60%ではほとんど残存しない(表1)。

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収穫直前に降雨にあうとアントシアニンは著しく減少するため、適期収穫を心がける。

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 ダイシモチのアントシアニンもずいぶんたよりない。ほんの少しで紫に染めている。100%で100%、90%では33%。はがれおちている。ポリフェノールはアンチエイジングで抗酸化作用がある。せっかくだから、紫に変色など気にならないような。

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モチ麦の品種はβグルカンが多い

2020-07-22 06:10:33 | 健康

 農研機構様HPのPDFから抜粋させていただきます。高βーグルカン大麦品種について紹介されている。

 

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表紙

 

大麦の分類

裸麦のもち性は二条のワキシーファイバーと六条のダイシモチ。

 

大麦の食物繊維は他よりものすごく多い。

 

βグルカンの構造

高分子多糖。野菜や果物には含まれていない。

 

 

健康に最高

 

 

血糖値の変化が少ない。

 

 

治療食の例

 

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他にも小麦粉に混ぜてパンにしたり用途が多い。

 

健康に最高、なので混ぜる、というより主食になる。モチ麦70%モチ玄米30%で圧力をかける。品種改良のおかげで昔の飢饉の食事が現代では、最高の健康食。

 

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