途中から転載します。-☆
3月11日、「週刊新潮に巣くう悪魔の研究」と題する霊言
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C イエス様の時代に判決を下した方ですか。
悪魔 そんな、私はね。いや、ユダに金渡したよ。銀貨三十枚、彼に渡したのは、私だよ。
B ということはサドカイ派。
悪魔 旧宗教というか、伝統的価値を守る側にいたものではあったよ。急 速に何千人もの群集が、彼につき従い始めたから、伝統宗教としてはだねえ、ユダヤ教としては脅威じゃないか。
B ユダの告発で大衆を扇動しましたね。イエスを磔にしろと。
悪魔 そら、私一人じゃなくてだねえ、現在の新潮の社員、いやいやいや。
A 新潮の方はやっぱり、一緒に生まれ変わってるんですね。
悪魔 いや、だから私たちの守る価値は伝統的な保守なのでございまして。既成権力については悪くは言わない。
B あなたは今、どちらに。
悪魔 私の神殿は新潮社です。
A 誰にインスピレーション送ってるんですか?
悪魔 すべてを統括してますよ。
C 今の社長と週刊新潮の編集長もイエス様の時代にいた?
悪魔 まあ、私の手下だよ。十字架に架けるときにさあ、誰か一人だけ赦してやるという話があっただろう。それで民衆は強盗殺人だか、したほうを釈放しようと言って、イエスを「殺せー」って言った。それを金を撒いてやらせた連中はいるよ。
A それが新潮。
悪魔 買収したやつだな。
B あなたの近くにいた人は現社長あるいは、酒井編集長?
悪魔 当然いただろうな。私たちは魂の、縁生の友達だよ。
B きょう子氏と「新潮」さんには、霊的な結びつきがあったんじゃないかと。
悪魔 仲介するもんがいることはいるけどね。
A 誰ですか?
悪魔 そりゃー、ジャーナリズムが尊敬して止まない方ですよ。ルシフェルさんです。智天使でしょう。総指揮をしていますね。私の立場はとにかく保守
C イエス様以前も、同じような仕事をしたんでしょうか。例えばソクラテスの時代とか。
悪魔 際どいなあ。裁判はあったからね。ソクラテスにやりこめられた言論人てのはけっこういるんだよな。ソクラテスは家族を養わないで議論をふっかけるようなぐうたら男だよ。だから、妻は告発していましたよ。
C それを手助けした?
悪魔 受けましたよ。当然、救ってやらないかんと思ったし、正統派の知識人たちがやり込められるのは許してはならない。
B 『ソクラテスの弁明』には、ソクラテスは有罪だと言って、アテネ市民を扇動した人が出てきますが。
悪魔 私はいつも、保守的な正義を守る立場にあるんだよ。
B その保守が正しいかどうかは関係ない。
悪魔 何が正しいかなんて分かるわけないだろう。伝統的に多くの人が認めてきたものは信じる。
A 新しいものは出てくる余地はないですね。
悪魔 新しいものが真実であるかどうか試すためには、やっぱり弾を撃たなきゃいけないね。それであっさりと倒れてしまうようならたいしたことない。乗り切るのは相手の義務だわな。
B フェアネスがないですね。
悪魔 教団を割れたら面白い
C 実は、黒にできないんじゃないかと思い始めてませんか?
悪魔 次の裏切り者、今、探してるんだけど落とせないんだ。彼女だって教団のなかに三割ぐらいの信用はあると思ってたよ。それで教団を割ることができたら、マスコミ的には十分な成果で、今年はもうビールを開けてみんなで社内で乾杯……。
C 教団を割ることが、今の目的だというわけですね。
悪魔 面白いじゃない。割って次、戦い始めたらもっと面白いじゃない。いくらでも記事が書けるじゃない。そういう話題の提供者が、週刊誌業界の救世主だよ。
B 宗教報道に関しては見方を変えていただきたい。
悪魔 ちょっと今回はバランスの取り方が悪かったかなという感じがしないわけではないけど。文春もまあ同罪だからさあ。
(注)1914年生まれ。2000年没。父の勧めで、ひとのみち教団(現PL教団)に入信し、そこで新潮社創業者・佐藤義亮氏やその一族と知り合う。その縁で義亮氏の孫・亮一氏(3代目社長)の家庭教師となり、1935年、早稲田大学理工学部を中退し新潮社入社。「新潮」編集長として活躍。新潮ジャーナリズムの基本路線を築いたと言われる。「編集者は黒子」の立場をとり、表舞台には姿を見せなかった。フェアネスの精神を持て
今回の霊言で、「週刊新潮の悪魔」を名乗る人物の過去世は、人類史において四聖と呼ばれる人々のうち、イエス・キリストとソクラテスの二人を迫害した中心人物だったことが判明した。
共通しているのは、「伝統的価値観を守るために、新しく出てきたものを悪と見なした」「身近にいたものの証言を利用し、民衆を扇動した」ということだ。こうした人物が、霊言の冒頭にあったように、生前、新潮社で神のように崇拝され、「金と女と権力」に象徴される週刊誌カルチャーの立役者となったのだ。「よってたかって叩けば、白でも黒にできる」「新しいものを試すには、とにかく弾を撃てばいい」というこの人物の考え方は、現在の週刊誌報道のあり方そのものだ。個々の問題について善悪の判断基準を示すことなく、読者の怒りや不満、嫉妬を煽って批判の矢を向ける手法は人民裁判さながらである。
しかし、「中身の判断はできないからとにかく叩く」という程度では、マスコミが「民主主義の守護神」を名乗ることはできない。国民を真に幸福にする価値観や活動までもが、まるで欲にまみれた「俗物」として一律に報じられることになりかねず、結果、国民の多くを惑わすことになるからだ。
少なくとも、報道におけるバランス感覚を持つべきだ。他の人の粗や失敗、失言を報じるならば、当然、逆に多くの人を幸福にしたり、社会に貢献したり、正しい発言をしたこともフェアに報道する必要がある。特に、宗教に関する報道は極端にすぎる。「金と女と権力」にまつわる話題ばかりを、しかも事実を捻じ曲げてまで報道し、その一方で国を良くし、世界を平和にするために取り組んでいる活動についてはまったくと言っていいほど触れられない。
このままでは、マスコミは過去の人類と同じ過ちを繰り返すことになる。真実を探究する公平な姿勢を持てるか否か。マスコミは今、大きな岐路に立たされている。