一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

ロンドンの同時多発テロについて

2005-07-10 | よしなしごと
ロンドンの同時多発テロについて、皆さんのblogでもいろいろな意見・感想が述べられています。
また、あえて書かない方もいらっしゃると思います。

事件から数日経ってしまいましたが、僕なりに考えた事を書いてみます


テロは許すべきでない。総論はそのとおりだと思います。


ではなぜ許すべきではないのか、考えてみました。
① 何の罪もない人を犠牲にしているから
② 百歩譲って戦闘行為だとしても被戦闘員を対象にしているから
③ 日常生活の安全性という認識を脅かすから、自分がやられたらいやだから
というあたりだと思います。

では①については
A イラクでも一般市民が空爆の犠牲になっているのだから、空爆した側も同様の犠牲を払う覚悟があるはずだ、という反論が考えられます
 これに対しては「悪意の連鎖は何も生まない」という説得はありえます。
 そうはいいながら、「罪があってもなくても人を殺してはいけない」と言い切れるかは正直言って微妙なのではないかと思います(でも、これを言い切れないと、「イラク戦争に参戦した国民は罪がある」という反論から戦争の大義の有無という不毛な議論にはいってしまいます)。
 たとえば死刑制度問題とか犯罪者の処罰における被害者の感情の反映の問題など、応報的考え方は、日本や死刑制度が存続している国々では有力なのではないでしょうか。(僕自身は原理としての応報的考え方正しくはないと思いますが「理屈ではわかるが俺が被害にあったらタダじゃおかない」と思っていることも事実です)。
 
②に対しては
B アメリカの通常兵器における圧倒的な軍事力を前提にすると、通常兵力による戦争のみしか武力行使を認めないのは、アメリカの言いなりになれと言うのと同義であり、われわれはアメリカによる軍事支配を容認するつもりはない、という反論があるでしょう。
 これは、北朝鮮の核開発のロジックと同じで、核開発においては核拡散防止条約以前に核保有した国がなぜ(核兵器を前面廃棄しないで)既得権益として核兵器を保有できるのか、ということにつながります。
 また、唯一圧倒的な軍事力を持つアメリカが「世界の警察」としてふるまうなかで、万が一自国を侵略しそれを既成事実化してしまった場合、国土を奪回しようとするなら通常兵器での戦争では勝ち目はないので、ゲリラ戦に訴えるしかなくなります。つまり「世界の警察」としてのアメリカを全面的に信用するか、外交努力以外には訴えないと覚悟するかしない限り、上の反論を否定することは、自らの首をしめることにもなりかねません。

③は感情の問題で、テロの実行側はそこをついてくるので、これについては「だからテロをやるんだ」と言う以外の反応はないでしょう。
 さらに、③の考え(家族・親戚・友人・知人の安全は大丈夫だろうか。株価・為替・原油価格は大丈夫だろうか。東京は大丈夫だろうか)は「自分にとってのダメージ」を基準にしているので、(「人を殺してはいけない」という一般的なメッセージ以外には)説得力ある共通の土俵を作りにくいという問題があると思います。


では、このまま放置するしかないのか、どうすれば世の中は今より少しは良くなるのでしょうか


ひとつは「人を殺してはいけない」という愚直なメッセージを伝えることだと思います。

ただこれは、伝える側も「意味なく」とか「罪もない」という留保をつけがちであるところが難しいところです。

実はテロのあった日の夜、ロンドン駐在経験のある人を含む何人かで飲んでいたのですが、そこで出た話が
 今回のテロの意図は示威行為であり大量殺戮を狙ったものではではないのではないか
というものでした。
 今回地下鉄の爆弾はCircle Lineという都心主要部に通じる環状線に仕掛けられていました。しかしCircle Lineは比較的浅く、地上出口が近いそうで、一方、Central Lineという相当深く逃げ場がない路線もあり、大量殺戮を狙うのであればそちらに仕掛けるはずだったのではないか、ということです(現に以前Central Lineで多数の犠牲者を出した火災事故がありその反省を踏まえ、地下鉄では禁煙、木製エスカレーターの金属製への改修が行われたそうです)。

 だから実行犯は良心的だ、というつもりはないのですが、少なくともテロ行為の政治的マイナス面は意識しているように思います。

 だとすれば、テロであろうとそれへの報復(イスラエルがよくやる)であろうと、(無意味な=できればこの留保なく)殺人は止めるべきだ、という風に国際世論が盛り上がる事はひとつの有効な手立てだと思います。


 もうひとつは「テロに屈しない」ことだと思います。

 具体的には、怖れない、被害にあっても怒りに任せた行動(特定の国籍・宗教の人々をリンチにかける等)をしない、ということです。
 言い換えれば、日常生活にテロというリスクを(あたかも交通事故と同じように)織り込む、ということです。
 しかしこれは①国の外交政策が民主的なプロセスで決定され国民の支持を得ている②外交政策によってはテロの危険が増す場合もあるがそれを国民が理解し納得している、という前提がないと成り立たないと思います。であるとすると、(IRAのテロと長年向き合ってきた英国ならともかく、さらに政治過程があいまいな)日本では相当難易度が高いように思います。
 また、アメリカのように「被害慣れ」していないところは「テロに屈しない」だけが前面に出て「殺すな」が影をひそめ、単なる報復合戦になってしまいがちだと思います。


つまり、テロ根絶を訴える側の成熟も相当必要だということでしょう。


事件以後時間がたった割りにまとまりがなくなってしまいましたが、とりあえず今思っていることを書いてみました。
コメント
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