屋久島で昼食に入った店で書棚にあった郷土史をパラパラとめくってました。
集落ごとの「出征兵士一覧」まで書いてあり、その中には関東軍に配属されノモンハン事件を生き延びた人の手記などもあり、国家の動員力のすごさをあらためて感じました。
ということで、帰ってきてから半藤一利氏の『ノモンハンの夏』を一気読み。
ノモンハン事件は、満州国とソ連・モンゴルの国境紛争に端を発したものが、それぞれ師団単位の戦力をつぎ込む大規模な戦闘に発展し、日本軍がロシア軍に惨敗して多数の犠牲者を出した事件(双方宣戦布告をしていないので「戦争」ではない)です。
日本軍は出動人員15,975人中の損耗(戦死傷病)率76%と第二次世界大戦を通じても最大級の苛酷な戦闘でした。(ちなみにガダルカナル会戦の死傷率は34%だそうです)
紛争終結後、スターリンに日本軍について問われたソ連のジューコフ将軍の
「日本軍の下士官は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である」
というセリフも有名です。
本書はその「高級将校の無能」に焦点をあてています。
英米との決定的な対決を避けようとする外務省や海軍(や天皇)に対して、対ソ戦争を主眼に置き、独伊との三国同盟の締結を主張する陸軍の立場が、参謀本部の関東軍暴走を止めなかった。
日露戦争の敗戦を教訓に徹底的な装備の近代化と戦術の見直しを行ったソ連軍に対し、日本軍は日露戦争の勝利におごり、そこからの教訓を生かさなかった。
その結果、ソ連軍の戦力や戦術、補給能力を把握せずに戦闘に突入し、緒戦から終始劣勢のまま勝ち目のない戦闘を続けた。
そもそも陸軍への評価制度が「撤退」に関して非常に厳しくなっており、上官ほど前進・攻撃命令を下すインセンティブが働いていた。
参謀本部も関東軍の参謀も陸軍大学卒のエリートであり、年次の上下や同期の遠慮などもあり戦線の建て直しや終結も後手に回った。
というあたりを厳しく明らかにします。
(さらに事件を主導した関東軍参謀辻政信中佐の特異な性格とその暴走を許した関東軍作戦課長の服部大佐などについては個人的にも厳しく指弾してもいます。)
終戦の日の前後にかけて、戦争の特集がなされていますが、その多くが戦争の悲惨さや、なぜ戦争に突き進んだのか、なぜ負けたのか、ということをテーマにしています。
ただここで一度
どうすればあの戦争に勝てたのか
ということを検証して見る必要はないでしょうか。
結果的にはみると「勝てっこなかった」ということは明らかなように思いますが、そうであったとしても
・戦争の目的はなんだったのか
・その目的の達成はどのようにして可能だと判断したのか
・そのために戦闘と・外交努力をどのようにミックスして行動しようとしたのか
・その分析は正しかったのか
・分析が誤っていたとしたら、どのようにすればよかったのか
・何をやっても「八方塞り」だったとしても、そこで戦争に打って出る目的は何か。
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というあたりを、冷静に再検証してみる必要があると思います。
結局軍事力というのは、国家と国民の平和と安全と繁栄を維持するための一つの経営資源なわけで、それは外交や経済力とあわせて使わないと意味がないし、そこを「軍部の暴走」のせいにだけにしてしまうといけないと思います(一部の悪い人間がどうした、というのではなく「統帥権の独立」「天皇を輔弼する」という軍隊の性格・国家の統治体制の設計自体が歪みがあったわけですから)。
そうやって考えていうと、自衛隊の位置づけとか文民統制のあり方とか給油活動とか外交(特に対米対中)とか経済政策(米国債購入とかFTAとか)の議論にも示唆になるところがあるように思います。
(*) 陸軍が日露戦争の戦史を編纂していたとき、高級指揮官の少なからぬものが次のような指摘をしていたそうですが、それは戦史には載らず、戦術や教則にも生かされませんでした。
「日本兵は戦争においては実はあまり精神力が強くない特性を持っている。しかし、このことを戦史に書き残すことは弊害がある。ゆえに戦史はきれい事のみを書きしるし、精神力の強かった面を強調し、その事を将来軍隊教育にあって強く要求することが肝要である」
結局その「きれいごと」を自らも信じ込み、「必勝の敢闘精神」ですべて補えると思い込んだ結果が大きな悲劇を招いたわけです。
(これは企業や個人にも言えますね、自戒、自戒)