山田風太郎の本。
戦争当時医学生であった本人の日記をまとめた『戦中派不戦日記』『戦中派虫けら日記』はボリュームがあったのでまずはこちらから。
サブタイトルのとおり、開戦の昭和16年12月8日と終戦までの昭和20年8月1日から20日までの間に、日本や米英で起こった出来事を、著書やエッセイ、記録などを丹念に整理して時系列でまとめたものです。 素材の選択と整理の仕方が非常に上手く、そのときのそれぞれの立場の人々の考えや行動を活写しています。
開戦の日は、日本中のほとんどの人が高揚感に包まれていたことが鮮やかに描きだされます。
特に作家に日記を数多く引用して、終戦時(そして暗黙裡に戦後の発言とも)と対比させる作者の視線は冷徹でもあります。
(話がそれますが、そのなかで谷崎潤一郎は一貫して自身の著作とどういう美味しいものを食べたかを中心に日記を書き連ねていて印象的です。)
最後の15日間は、広島に原爆が投下された8月6日と、ソ連参戦・長崎への原爆投下・終戦の「ご聖断」が下った御前会議(会議は深夜にわたり、「ご聖断」は翌日2時30分だったそうです)があった8月9日が白眉です。
ちょうどこの日、徳川夢声が日記に書いたつぎの句が印象的に引用されています。
日の盛り鍋に焼かるる胡瓜あり
そして8月10日から15日までの間は、「ご聖断」が徐々に新聞記者や軍関係者から一般人にまで伝わり、また海外放送で意向を伝えたことから米軍の前線までにも伝わった中で、降伏条件の細部をめぐっての調整が続きます。
戦争は止めるまでにも手続がかかるわけで、その間も前線での戦闘や空襲は続き、犠牲者が出ます。
このへんは個人的にも残念だったところです(参照)。
終戦の詔勅が出てからの特に軍人の身の処し方・振る舞いについてはいろいろなところで語られていますが、考えさせられたのがつぎの二人。
大分の第五航空艦隊司令長官の宇垣纏は、自ら爆撃機に乗り沖縄の米軍に特攻をかけます(結果3機は不時着、6機は撃墜)。
あとに残された宇垣中将の「抱夢征空」と書かれた色紙には、「海軍大将宇垣纏」と署名してあった。戦死すれば当然一階級昇進するはずだという気持だったのであろう。
このように作者にも皮肉を言われていますが、そもそも戦闘終結の命令が下ったにもかかわらずそれを無視して特攻をかけたものが、軍隊の慣例に基づいて処遇されると当然に思っているところが、日本軍の上級将校に共通する精神構造だったのかもしれません。
宇垣中将が飛行場に行くと、5機と指示していたのに「長官が特攻をかけられるというのに、たった5機で出すという法がありますか。私の隊は前機でお供します」という爆撃隊長の言で9機が離陸の準備をしていたそうです。
自発的に「お供します」といった人はいいとして、そもそも戦争が終結した後に特攻するのに自分以外の部下にも命令しているこち自体勘違いもはなはだしいです。
でも、考えてみれば、現在の組織においても、独断や専横をする人ほど、自分は組織のためにやっているのだから、独断(ルール違反)を理由に処分されるはずがない(うまく行ったら当然二厚遇されるはずだ)と思い込んでいる人が多いし、組織の側も甘い対応をすることがまま見られるので、これは日本軍に限ったことではないかもしれません。
もう一人は陸軍第六航空軍司令官の菅原道大中将。
しかし、みずから特攻隊を叱咤して送り出しながら最後に至って死に場所を捨てた指揮官もあった。
福岡にある陸軍第六航空軍司令部にも、第百一特攻隊員がおしかけた。
「お願いに参りました。今から特攻に出してください」
「行軍に降伏はない。戦陣訓はどうなりますか」
「菅原軍司令官閣下は、特攻出撃のたびに、後に続く者を信じてゆけ、といわれたではありませんか」
(中略)
ついに午後八時、鈴木大佐は軍司令官室に入っていった。
「軍司令官閣下も御決心なさるべきかと思います。重爆一機、爆装して出撃の準備をいたしました。鈴木もお供をいたします」
菅原道大中将は当惑した表情になり、やがて陰々といった。
「死ぬばかりが責任を果たすことではない。また玉音を拝聴した上は、余はもう一人の兵も殺すわけにはゆかない」
著者には否定的に書かれていますし、終戦時までの菅原中将の言行や考えがわからないので、発言が責任感からきたのか、怯惰から来たのはわかりませんが、「玉音を拝聴した上は、余はもう一人の兵も殺すわけにはゆかない」というのは、正しい判断だと思います。
この発言自体を否定してしまうと、ではどうすればよかったのか、ということになってしまいます。
確かに司令官としての自分個人の責任は示す、というやり方はあったかもしれませんし、部隊に特攻を命ぜられた時点で、身を処しかたかを考えておくべきだったかもしれませんが。
特攻の発案者でフィリピンで多数の特攻隊を送り出した、大西滝次郎海軍軍令部次長は、8月16日未明に割腹自殺をしたことがこれと対比された言及されていますが、一方で本書でも8月10日の天皇の「ご聖断」が軍部に伝わった部分で
この日、大西軍令部次長は、富岡作戦部長に「天皇といえども時に暗愚の場合なきにしもあらず」とさけんだ。
ということなので、自殺自体も必ずしも特攻隊員に対する責任感はなく、自分の思いが遂げられなかったことへの絶望がまさっていたようにも思います。
敗戦、という究極の状況で人間がどのような行動をしたか(そして、自分ならどうしただろうか)について考えさせられる本です。