一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『響きあう脳と身体』

2009-08-19 | 乱読日記

武術研究家の甲野善紀氏と脳科学者の茂木健一郎氏の対談本。

甲野善紀氏は講演も数多くしているためか話もなかなかわかりやすく、甲野氏の話を茂木氏が合いの手を入れながら引き出すという形で進行します。

脳が身体の使い方をどう生かし、またどう阻害しているか、それら協働したり相反したりするアタマとカラダにどのようにして向かい合えばいいのかということを中心にして話が進みますが、示唆に富む話が多いです。

(甲野)
 ・・・現代ではほとんど誤解されていますが、もともとの、日本の武術における型稽古の優れたところは、「つい動いてしまう」とか、「普通にやっていると動きやすい」動きをあえて不自由に制限することによって、日常から飛躍した、レベルの高い動きを、本人が発見できるように組まれていたと思うのです。
 しかし現在は、型って、ある形を真似して、それを反復練習することによって、その動きをスムーズに自動化していくためのものだと考えている人が多いんですね。・・・
 型稽古は、実は大変奥が深いんですよ。日常的な動きを完全に封じてしまうと稽古していく手がかりがありませんから、とりあえず型を真似する中で、うまく日常的な動きから断絶した世界をかいま見せ、そこへ飛躍させるように稽古する者を導くように構造化されている。つまり、「できること」をいかに否定して、次の段階に飛躍させるかという教育的な方法論が、一つの知恵として「型」に結実していたと思うのです。

仕事におけるOJTも「慣れさせる」だけではだめですし、実はトレーニングしている方も単に惰性に流れて「動きやすい動き」をしているだけで、それを「型」と言っているだけかもしれないなぁとちょっと自省。

(甲野)
・・・武術は、その起源は、「相手への対応」をどうするか、ということにつきます。・・・たとえば仕事をする中ではいろんな人に会うでしょうし、その中には論理的に片付くこともあれば、論理じゃないところでぱっと切り替えて対応しなければいけない場面も必ず出てきます。
 つまり話がこみいってきたときに、その人の何気ない態度を含めた対応いかんで状況ががらっと変わるということがあるわけです。特に謝罪のときなどはその人の、人としての力量が最も問われるときです。・・・いじけもせずに、ふてくされもせずに、率直にそのまま謝るというのは、よほどセンスがよくないとできない。

組織の中だけで偉くなると、このスキルはだんだん衰えますね。なので企業不祥事におけるトップの対応が問題になることが多いのでしょう。

その「楽しないでやっていける」ということがひとつの体力であり、その体力のもとになっているのが、枯れることのない探究心なんじゃないでしょうか。何かの趣味をやっていたけど飽きちゃったというのは、それがその人の根元的なところに結びついていなかったということなんだと思います。

ふと、勝間和代さんの「効率化しよう」「パフォーマンスを上げよう」という数多くの著作を出し続ける動機の根っこはこんなところにあるんじゃなかろうかと思いました。


でも、手応えがあるというのはダメだと私は思っているんですね。まあ、「手応え」という言葉をどういう意味で使うか、という問題もありますが、具体的な身体感覚で「手応え」と言ったとき、そういう手応えがある動きというのはある部分をすごく使っているということである場合が多いですから。むしろ手応えが感じられないような身体の使い方であればあるほど、技は有効だといえる。・・・汗水たらしてよいしょ、よいしょ、という感じの身体の使い方は、どう考えても局所的な、効率の悪いからだの使い方をしている、ということです。

先日2週間ぶりにスポーツジムに行ったところ、マシンジムで鍛えている筋肉は、屋久島で山登りやシーカヤックをしたときに使う筋肉は別のところなんだな、と改めて思いました。
山登りにしても素人が無駄の多い体の動かし方をしていたのでしょうが、普段鍛えている(=強い)部分を使って合理的な動きをする、ということもできたはず(かもしれない)です。
マシンジムで鍛えても、鍛えた筋肉の使い方を具体的な動作レベルに落とさないと意味がないなぁと実感しました。(ひょっとすると無駄ない動きをするときにすら使わない部分を鍛えているのかもしれません・・・)

 

 

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