そういえば山猫は眠らないというタイトルの軍事アクション映画があったが、それとはまったく関係ない。今回紹介する映画山猫は19世紀半ばの激動のイタリアのシチリア諸島が舞台。本作を理解する上で少しばかりこの時期のイタリアの状況を説明しておく必要があるだろう。現在は長靴の形をしたイタリア共和国として存在しているが、元々はバラバラの国として存在していた(サルディーニャ王国、パルマ公国、両シチリア王国等)。そんな時にイタリア統一運動に大きな働きをしたのが革命軍を率いたイタリアでは有名すぎるガリバルディ。ガリバルディがシチリア島に攻め込んでくることが本作の発端となる。
それとシチリア島の状況も少しばかり説明しておく必要もあるか。本作では主人公であるバート・ランカスターが「シチリアは25世紀に渡って他国に支配されてきた」と言う台詞がある。そして、シチリアは色々な国の支配を受けている歴史がある(スペイン、フランス、ブルボン王朝等)。本作においてはシチリアはブルボン王朝の支配を既に長年に渡って受けていたのだが、そこへ前述したようにガリバルディがブルボン王朝を支配するべく攻め込んできたのだ。
そんなブルボン王朝の下で甘い蜜を吸っていたのが特権階級に属する貴族たちだが、階級社会で上流にあたる彼らは王朝の庇護を受けて、ボッ~としながらでも豪華な暮らしをすることができた。ところが、王政打倒、共和制を掲げるガリバルディの革命軍がもの凄い勢いでシチリアに攻め込んできた。もしもガリバルディにシチリアを征服されると、この地にいる貴族たちは社会の変革によって彼らの特権は剥奪される恐れを抱かざるを得ない。
そんな貴族社会がピンチに陥ってしまった事に対して苦悩するのが、長きに渡って続いた名門中の名門であるバート・ランカスター演じる老年のサリーナ公爵。
古き社会と新しき社会の狭間で揺れる老貴族に訪れる運命はこれ如何に。
19世紀半ばイタリアのシチリア島において。山猫の紋章を持つ貴族であるサリーナ公爵(バート・ランカスター)はシチリアのパレルモで大家族と共に暮らし、貴族らしく振る舞っていた。しかし、そこへガリバルディによる革命軍がシチリアへ上陸。そんな時にサリーナ公爵の甥であるタンクレディ(アラン・ドロン)は時代の波を嗅ぎつけ、革命軍に参加することをサリーナ公爵に告げる。まさかの申し出に戸惑うサリーナ公爵だったが、日頃可愛がっているタンクレディにお金を持たし、革命軍に参加することを許す。
ガリバルディによってシチリアも征服され、サリーナ公爵一家は別荘へ逃れる。そこではこの混乱に乗じて資産を増やして勢力を伸ばしているブルジョワ上がりのカロージェロ(パオロ・ストッパ)が市長となっていた。
そして、軍功を挙げて帰ってきたタンクレディだが、カロージェロの美しい娘アンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)に一目惚れ。タンクレディはサリーナ公爵にアンジェリカとの結婚の後ろ楯になるように頼み込むのだか・・
貴族社会の特性として近親での結婚が多いことが挙げられる。タンクレディも当初はサリーナ公爵の娘と婚約していたのだが、彼女を振ってブルジョワ上がりの娘であるアンジェリカに乗り換える。名門一族の貴族にとって結婚することにも相手の階級を気にしなければならないのだ。しかも、相手はまるで価値観の異なる家柄の女性。タンクレディは新時代の象徴であり、そして彼の時代を読み取る目が凄いからなのかポリシーを簡単に曲げるのだが、その辺りが俺的にはムカついた。
そしてサリーナ公爵だが結構なエロ爺。シチリアが一大事な時でも娼婦の館に通い詰める。しかしながら、迫りくる老いと貴族社会の斜陽、それに抗うことに苦悩する。しかし、その姿に名門貴族としてのプライドや引き際の美学を感じさせられた。
なかなか重厚な人間ドラマを感じさせ、それでいて政治的な面も描かれている。そして現在のイタリアの姿になる激動の時代を少しばかり勉強した気分になる。個人的には非常に面白く観れたのだが、3時間の長丁場。貴族だのイタリア統一運動だのシチリアの綺麗な風景などに興味が無い人には恐らく睡魔との戦いになるか。そのためにもここで述べたような知識ぐらいは予習しておきたいところだろう。更に、後半では30分以上の時間を豪快に踊りまくるシーンが出てくるだけに脱落してくる人も出てきそうなのが不安だ。
そうは言っても本作は貴族の末裔であるルキノ・ヴィスコンティ監督。貴族の末裔がこのような貴族の没落を描くことの奥深さを感じるし、豪華セットは見所充分、ニーノ・ロータによる音楽は素晴らしいし、何と言っても格調が高い。少しばかりイタリアに興味があり、ルキノ・ヴィスコンティ監督と聞いて心が騒ぎ、3時間の長丁場に耐えられる人に今回は山猫をお勧めに挙げておこう
監督は前述したルキノ・ヴィスコンティ。映画界に多くの名作を遺した。サスペンスの傑作郵便配達は二度ベルを鳴らす、女の情念を感じさせる夏の嵐、1960年代のイタリアの南北格差を描いた若者のすべて、骨肉の争いが凄まじい地獄に堕ちた勇者ども、本作と同じくバート・ランカスター主演でうるさい訪問者に悩まされる家族の肖像、彼の遺作であるイノセント、ひたすら豪華さを求めるならルードヴィッヒがお勧め
それとシチリア島の状況も少しばかり説明しておく必要もあるか。本作では主人公であるバート・ランカスターが「シチリアは25世紀に渡って他国に支配されてきた」と言う台詞がある。そして、シチリアは色々な国の支配を受けている歴史がある(スペイン、フランス、ブルボン王朝等)。本作においてはシチリアはブルボン王朝の支配を既に長年に渡って受けていたのだが、そこへ前述したようにガリバルディがブルボン王朝を支配するべく攻め込んできたのだ。
そんなブルボン王朝の下で甘い蜜を吸っていたのが特権階級に属する貴族たちだが、階級社会で上流にあたる彼らは王朝の庇護を受けて、ボッ~としながらでも豪華な暮らしをすることができた。ところが、王政打倒、共和制を掲げるガリバルディの革命軍がもの凄い勢いでシチリアに攻め込んできた。もしもガリバルディにシチリアを征服されると、この地にいる貴族たちは社会の変革によって彼らの特権は剥奪される恐れを抱かざるを得ない。
そんな貴族社会がピンチに陥ってしまった事に対して苦悩するのが、長きに渡って続いた名門中の名門であるバート・ランカスター演じる老年のサリーナ公爵。
古き社会と新しき社会の狭間で揺れる老貴族に訪れる運命はこれ如何に。
19世紀半ばイタリアのシチリア島において。山猫の紋章を持つ貴族であるサリーナ公爵(バート・ランカスター)はシチリアのパレルモで大家族と共に暮らし、貴族らしく振る舞っていた。しかし、そこへガリバルディによる革命軍がシチリアへ上陸。そんな時にサリーナ公爵の甥であるタンクレディ(アラン・ドロン)は時代の波を嗅ぎつけ、革命軍に参加することをサリーナ公爵に告げる。まさかの申し出に戸惑うサリーナ公爵だったが、日頃可愛がっているタンクレディにお金を持たし、革命軍に参加することを許す。
ガリバルディによってシチリアも征服され、サリーナ公爵一家は別荘へ逃れる。そこではこの混乱に乗じて資産を増やして勢力を伸ばしているブルジョワ上がりのカロージェロ(パオロ・ストッパ)が市長となっていた。
そして、軍功を挙げて帰ってきたタンクレディだが、カロージェロの美しい娘アンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)に一目惚れ。タンクレディはサリーナ公爵にアンジェリカとの結婚の後ろ楯になるように頼み込むのだか・・
貴族社会の特性として近親での結婚が多いことが挙げられる。タンクレディも当初はサリーナ公爵の娘と婚約していたのだが、彼女を振ってブルジョワ上がりの娘であるアンジェリカに乗り換える。名門一族の貴族にとって結婚することにも相手の階級を気にしなければならないのだ。しかも、相手はまるで価値観の異なる家柄の女性。タンクレディは新時代の象徴であり、そして彼の時代を読み取る目が凄いからなのかポリシーを簡単に曲げるのだが、その辺りが俺的にはムカついた。
そしてサリーナ公爵だが結構なエロ爺。シチリアが一大事な時でも娼婦の館に通い詰める。しかしながら、迫りくる老いと貴族社会の斜陽、それに抗うことに苦悩する。しかし、その姿に名門貴族としてのプライドや引き際の美学を感じさせられた。
なかなか重厚な人間ドラマを感じさせ、それでいて政治的な面も描かれている。そして現在のイタリアの姿になる激動の時代を少しばかり勉強した気分になる。個人的には非常に面白く観れたのだが、3時間の長丁場。貴族だのイタリア統一運動だのシチリアの綺麗な風景などに興味が無い人には恐らく睡魔との戦いになるか。そのためにもここで述べたような知識ぐらいは予習しておきたいところだろう。更に、後半では30分以上の時間を豪快に踊りまくるシーンが出てくるだけに脱落してくる人も出てきそうなのが不安だ。
そうは言っても本作は貴族の末裔であるルキノ・ヴィスコンティ監督。貴族の末裔がこのような貴族の没落を描くことの奥深さを感じるし、豪華セットは見所充分、ニーノ・ロータによる音楽は素晴らしいし、何と言っても格調が高い。少しばかりイタリアに興味があり、ルキノ・ヴィスコンティ監督と聞いて心が騒ぎ、3時間の長丁場に耐えられる人に今回は山猫をお勧めに挙げておこう
監督は前述したルキノ・ヴィスコンティ。映画界に多くの名作を遺した。サスペンスの傑作郵便配達は二度ベルを鳴らす、女の情念を感じさせる夏の嵐、1960年代のイタリアの南北格差を描いた若者のすべて、骨肉の争いが凄まじい地獄に堕ちた勇者ども、本作と同じくバート・ランカスター主演でうるさい訪問者に悩まされる家族の肖像、彼の遺作であるイノセント、ひたすら豪華さを求めるならルードヴィッヒがお勧め
私の大好きな映画の1本「山猫」のレビューを書かれていますので、コメントしたいと思います。
この映画「山猫」は、イタリアのシチリアの貴族の壮麗な挽歌であり、失われた貴族文化へのオマージュに満ちたノスタルジックな、ルキノ・ヴィスコンティ監督の最高傑作だと思います。
この映画「山猫」は、イタリアの世界的な巨匠ルキノ・ヴィスコンティ監督の作品で、1963年度のカンヌ国際映画祭で最高賞であるグランプリ(現在のパルムドール賞)を受賞している、映画史に燦然と輝く珠玉の名作です。
この映画の題名である「山猫」とは、イタリアのシチリア島で、アラゴン、スペイン、ブルボンなどの各王朝の下で栄えてきたファルコネーリ家の家紋であると共に、現在の当主サリーナ公爵(バート・ランカスター)の呼称でもあり、彼は旧家の権威と新時代への対応力と併せて、変革に不易な深い人間性をも備えている人物として描かれています。
それまでは、どちらかというと野卑でタフガイのイメージであったバート・ランカスターに、"貴族の家父長的な尊厳さ"を与えたヴィスコンティ監督は、その後も彼を自作の「家族の肖像」にも起用していて、ミラノの公爵の御曹子で、その思想的な背景から"赤い公爵"とも言われた自らの孤独な姿を、バート・ランカスターに投影しているものと思われます。
原作は、シチリアの貴族ランペドゥーサ公爵が、自らの没落過程を描いた唯一の作品であり、1958年に自著が公刊されるのを待たずに世を去っています。
このように、原作、映画の監督ともイタリアの旧貴族ですが、ヨーロッパの華麗な芸術を伝えてきた彼等の文化的な役割は、ルキノ・ヴィスコンティという偉大な芸術家を失った今日でも、彼等が残した作品は決して色褪せる事なく、永遠に輝き続けるのだと思います。
時は1860年、"復興"の波に乗ったガリバルディの率いる赤シャツの義勇軍は、シチリア島のマルサラに上陸し、ブルボン王朝軍を圧倒して、その後、破竹の勢いで進軍し、パレルモを占領しましたが、映画はこの革命戦争の様相を生々しく描いていきます。
サリーナ公爵の甥タンクレディ(アラン・ドロン)は、野心に満ちた若い世代を代表する人物で、当初は赤シャツ隊に参加し、獅子奮迅の活躍をした後、負傷し、新国王エマヌエーレ二世の国王正規軍に移り、ガリバルディの革命軍を反対に鎮圧する立場になりました。
イタリア王国が、ローマを首都と定めて統一を成し遂げたのは、1871年ですが、ガリバルディの市民戦争の翌年の1861年にアメリカで独立戦争が起こり、更にその7年後の1868年に日本では徳川幕府が崩壊しているという、大きな歴史の変革の時期に差し掛かっていました。
しかし、これらの変革は、地主階級を温存するという、不徹底なものに終わった事で共通しています。
タンクレディが、愛情からだけではなく、政治的、財産上の欲望も絡んで結婚する美貌のアンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)は、新興ブルジョワ階級の代表である市長(パオロ・ストッパ)の娘であり、タンクレディと同様に新時代の息吹きと生気に満ち溢れています。
しかし、このアンジェリカは、サリーナ公爵の孤高な熟年の男に魅力を感じていきます。
一方のサリーナ公爵も、若い彼女に対して、人生の終わりに近づきつつある自分を感じ、最後の炎を燃やします。
この映画のラストで、サリーナ公爵が主催する舞踏会は、これまでに映画で描かれた中でも最も豪華な舞踏会ともいえるもので、スケールの大きさや見た目の派手さという事だけなら、他にもあったかも知れませんが、それがその細部に至るまで、徹底して本物にこだわった見事さは、類を見ない素晴らしいものがありました。
この舞踏会での、このサリーナ公爵とアンジェリカの精神的に共感する老若二人の華麗なワルツは、この映画のラストを比類なく、美しくも悲しいノスタルジックなものにしているように思います。
そして、この映画の中では、まるでダイヤモンドの輝きを思わせるような、人生の深遠に迫るほどの奥深く心に残ったサリーナ公爵のセリフの数々がありました。
「何だ? 愛か? 愛もよかろう、炎と燃えて一年、後の三十年は灰だよ」、「現状を否定する者に向上は望めない。彼らシチリア人の自己満足はその悲惨さよりも強い」、「続くべきでないものが永遠に続く。人間の永遠など知れたものだが、しかも変わったところで良くなるはずもない」、「我々は山猫だった。獅子であった。やがて山犬やハイエナが我々にとって代わる。そして、山猫も獅子も山犬や羊すらも、自らを地の塩と信じ続ける」、「私達の願いは、忘却、忘れ去られたいのです。血なまぐさい事件の数々も、私達が身を委ねている甘い怠惰な時の流れも、全ては実は官能的な死への欲求の現れなのです」、「おお星よ。変わらざる星よ、はかなき現世を遠く離れ、汝の永遠の世界に我を迎えるのはいつの日か?」--------。
舞踏会という絢爛豪華な宴が終わった後、一人路地裏で膝まづいて、このように祈ったサリーナ公爵は、既に夜明けになっているにもかかわらず、なお仄暗い路地の奥へと淋しく消え去っていくのです。
ニーノ・ロータの優雅で甘美な音楽とは正反対に、赤茶けた自然と民衆の生活は苛酷であり、シチリア島は、長年に渡って他国の植民地としての苦しみに耐えてきたのです。
サリーナ公爵が、「二十歳で島を出ては遅すぎる」という程の人間関係の繋がりが深いシチリアは、その後も映画「ゴッドファーザー」などに出てくるマフィアというギャング組織の故郷にもなっています。
このシチリアほどではないにしろ、"イタリアには人があって国がない"と言われており、アングラ的な裏の権力や経済が支配している背景とも見られているのです。
そして、イタリアでは納税に対する義務感が低いと言われていますが、その根本的な原因は、統一された国民共同のものとしての国家感がないからだという事なのかも知れません。
しかし、イタリア人及びイタリア移民の映画芸術というものへの貢献は、ルキノ・ヴィスコンティ監督やフランシス・フォード・コッポラ監督の如く世界的に素晴らしく、偉大なものであると痛切に感じます。