我が家の枇杷葉の実は、小粒だが味は濃い。加えて、どれにも外れが無く甘い。差し上げた人が驚く甘さ。市販品の味には、比べるべくもない。初めて枇杷狩りに行った淡路島で、甘酸っぱい味の枇杷の実に、驚いたことにも依る。糠と塩を施肥する。
ここ数年は何も施してないが、年末には遣っておこう。以前は、鶏糞を入れていたが、鈴生りで袋かけにてこずった。木も早く傷むような気がして止めた。できる限り、自然に任せるのがいいと、感謝の心だけでいた。今年は、実の生りが捗々しくない。
それでも、他所の所には、生っていないこともあって、我が家のは先ず先ずである。白枇杷も生っていることを想えば、尚更ありがたい。そろそろ剪定の頃合いでもあり、枝を決めてしよう。木村秋則さんがおっしゃる声かけは、自然に感謝する想いだ。
玄関の梔子が咲く。何と清々しい佇まいだろう。季節の到来を忘れずに、清楚な姿を現す。花にも命や心があることにはっとする。人間だけが生きているのでも、地球に棲まうのでもないのだ。それなのに、原発で核を造り、戦争を止めることをしない。
日本は、戦争を放棄することを決めたのではないか。その意味の深さを、真摯に受け止めて思考しないでは、亡くなった人たちが浮かばれない。いや、国に殺されたと言うべきか。人間として一番罪が重いことを、これほど簡単に決めるとは。絶句!
国民の大半が反対する決議を、理解しろとは言語道断だ。著名な方でさえ、戦争になる懸念を拭えないのに、直接其処に行かなければならない者にとっては、拒否権はあるのか。議員の数だけで決議することでもない。どんな解釈であろうとだめだ。
今は亡き、手塚治虫氏、星新一氏、光瀬龍氏、小松左京氏も、戦争の愚かさを、何度となく書いてきたのだ。戦争になれば、善人が殺される。金持ちや卑怯な者は、巧く立ち回る。戦争に行かなくても命の保障はない。過ちを再び繰り返してはならない。
春、勢い芽吹く新芽。りささん枇杷葉と、サンタ枇杷葉。必要に応じて、生葉で活用したり、焼酎に漬ける。