戦争や戦災による死没者に弔意を表し、平和祈念のための追悼式を行います。
対象者 戦争・戦災死没者遺族
人 数 40名(応募者多数の場合、抽選)
参列者はコロナ前は遺族関係者は自由に参列できましたが昨年に続き残念ながら令和3年も応募方式となりました。
受付には「来賓」の表示がなく、市・県会議員の先生方のお姿が無く、「追悼のことば」の千葉市議会議長の代表者のみでした。
式 典 斎 場 式 辞 千葉市長 神谷 俊一氏
千葉市長 神谷 俊一氏 の 「式辞」 より
先の大戦で尊い一命を国難に殉じられた戦没者・戦災死没者4200柱の御霊前に進展止まない市政の現況をご報告申し上げるとともに、
平和で明るい社会の建設と郷土繁栄への決意をお誓い申し上げ、ひたすら御霊のご冥福をお祈りいたして参りました。続きます・・・
「追悼のことば」 千葉市遺族会会長 川島 義美氏
川島義美会長は、コロナ禍に種々の行事が縮小されました折の市、県、国の1年間の行事を丁寧に報告されました。
「思い出のことば」 遺族代表 仲田 孝子様 「献花」 遺族代表 15名の方々が献花を行いました
「献花」 遺族代表 15名の方々のお一人 「お礼のことば」 千葉市遺族会副会長 宍倉 操氏
「思い出のことば」を奉読をされた仲田 孝子様(右)と友人 祭壇の供花の一部を頂いてまいりました
「思い出のことば」を奉読されました遺族代表 仲田孝子様の許可を頂きましたのでお言葉をご紹介させて頂きます。
「思 い 出 の こ と ば」
現在、コロナ禍の時代で人々が集まりますことが困難の中、本日ここに千葉市戦没者追悼式を挙行して下さいまして誠にありがたく、千葉市長様をはじめ、職員の皆様方の
ご努力に深く感謝を申し上げます。
私の亡き父は仲田 戌孝と申します。父は昭和18年に招集令状がまいりました。
招集令状が来るまでの父は横須賀の造船場に勤務しておりました。
その勤務中に鉄の破片が目に入り片目を失明してしまいました。
このため、招集を免れたようですが、昭和18年頃の日本は戦況があまり良くなかったそうです。
そのためでしょうか、片目が見えれば十分だと言うことで18年3月に招集令状がきたそうです。
当時3歳であった私の脳裏には出征する父の姿が鮮明に焼きついております。
列車に乗り込んだ父は付き添っていく叔父と列車の窓から手を振っていました。
一緒につれていってくれない父に向って「カコちゃんも一緒に行く」と泣き叫び、見送りに来てくれた方々はその光景を見てもらい泣きをしていたそうです。
当時、妹は母の胎内におりました。その妹は父の顔も写真でしか知らず父に抱きしめられる事もありませんでした。
やがて昭和20年終戦を迎え、戦死の報が遺骨の代わりの白木の位牌の入った箱が届きました。
どこで戦死したのかもわかりませんでした。母は父の消息が知りたくてあちこち訪ね歩きました。
その時の消息の中、戦友から聞いた話では、父は満州で逃げている途中腹痛を起こし戦友達に自分を置いて逃げるようにと言ったそうです。
父は最後に母や私たち家族のことを思いながら亡くなって行ったことでしょう。無念だったことと思います。
母と私たちは母の田舎に疎開しました。おかげさまで食べ物には不自由することなくつつがなく過ごすことができました。
戦争は何も得るものがありません。
私たちのように辛く悲しい思いをする人たちがいなくなりますよう心から願ってやみません。
最後になりますが「思い出のことば」を述べる機会を頂き改めて父のことを思い出すことができました。
有り難く感謝を申し上げます。
本日は本当に有り難うございました。
令和3年10月22日
千葉市遺族会代表 仲 田 孝 子
仲田 孝子様お役目お疲れ様でございました。
この度改めてお父上様をお偲びされ戦後76年の長い間の多くの想いに感無量と存じます。
今後、お父上様を長くお偲びできますようにどうぞご健勝にてお過ごしくださいますようにお祈り申し上げております。
この度は有り難うございました。
のですね。
私の級友の多くもこういう形でお父上と別れておられます。
友人の中にはおなかの中にいて戦死され、男の子の
名前と女の子の名前を指示して戦地に行かれました。
この度の「思い出のことば」の方は高校の後輩です。
今まで「できない」を連発しおりましたが、ようやく斎場に上りました。
お父様への供養になりました事と思います。