2022年(令和4年)3月号 ちば市制だより(転載)
「鎌倉殿の13人」 紀行 「千葉県一宮町・千葉市」の紹介
千葉県一宮町 平安以降1,000年以上の歴史を持つ玉前神社
安房へ逃れた頼朝が助けを求めた上総広常が治めた地です。古くから朝廷や豪族、庶民の信仰を集めてきました
玉前神社の御前 玉前神社の飾り物とギター演奏 ポール・ギルバード氏の紹介
広常は頼朝の大願成就にと、ここ玉前神社に願文と鎧を奉納したといいます。
その故事に倣い、江戸時代の一宮藩主・加納久徴が寄進したと伝わる甲冑が残されています。
千葉県千葉市・
千葉市中央区の県庁からほど近い亥鼻公園の一角には 千葉常胤をイメージした銅像が建てられています。
平家打倒に立ち上がった頼朝に常胤は、息子と共に加勢したといいます。
千葉家の守護神・妙見菩薩を祭った千葉神社
千葉家の守護神・妙見菩薩を祭った千葉神社に頼朝は鎌倉へ向かう途中、常胤一族と共に参詣したといわれています。
上総と千葉の大軍勢を味方に付けた頼朝と義時は一路、鎌倉を目指します。
千葉県庁近くに建てられてあります「君待橋の碑」 「玉前神社」と「千葉神社」のご案内
「君待橋の碑」
君待橋にはいくつかの伝承がありますが、中でも、平安時代末期、源頼朝が相模から房総に海を渡った後、千葉にやってきた際に、千葉常胤が一族を率いてここで
迎えたという話は有名です。
「郷土博物館」について
4層5階の天守閣の姿をしています。
千葉市郷土館として昭和42年に完成し、昭和58年に郷土博物館に模様替えしました。
一帯が千葉氏の本拠だったのは平安後期~室町中期で、当時は山すその平地に館があったとされています。
亥鼻地区にこのような城の姿が存在した事実はなく、千葉城は「小田原城」と「会津若松城」を模して建てられたものです。
←「郷土博物館」脇に建つ千葉常胤像
私は息子が用意してくれたパソコを十分な知識も無いままに
最初は写真の貼り付けも出来なくどうしたらPC上に写真が
表示できるのかしら?でした。
何とか歴史倶楽部の記録を残したい!に始まり10余年
現在は退会しましたが、多くの歴史倶楽部の友人たちが
過去ログを見て下さっておりますことに感謝の日々でございます。
そして現在、初めてノートパソコンを見せて頂き驚きました。
写真が縦長に表示されておりました。
又デスクトップの友人に訪ねましたところいつもは問題なく
写真が2枚きれいに並んでいましたが最近、時々縦長に
なることもあるので写真を拡大しない方がよいと頂きました。
以上に写真の拡大をしないように気を付けてみます。
今後ともどうぞ宜しくお願い申しあげます。
私もパソコンについては試行錯誤でやってる素人です。
私のパソコンはノートパソコン、画面は15.6インチです。okoさんのお使いのパソコンはデスクトップ、画面は24インチ?
お使いのパソコンで画像の出方が変わるのか・・・ほかのパソコンで見たことがないので分かりませんが。機会があったらお友達のパソコンで見てみてください。
現在の形でもマウスでスクロールすれば全部見られるのでいいのですが。
うるさいこといってすみません。
岐阜県の短歌の友人が「千葉氏は岐阜に来られて古今集の
講義をされ、歌を広められました。」↑
とお書きくださいました事に
千葉氏の功績を改めて深く学ぶ機会に恵まれました。
教えて頂きまして学ぶことができました。
千葉県は源頼朝を助けたということは聞いておりましたが、
ドラマにまで登場するほど活躍しました事、改めて学びました。
色々とご指導を頂きましてありがとうございます。
しかしゴメンナサイ!
私には内容が理解できないのです。
不勉強で申し訳ございません。
写真が大きすぎたのでしょうか?
最近は写真を拡大しすぎたと思いましたので、少し縮小しました。
私の画面ではきちんと並んでいますが、後ほど近くの友人のPCを
見せてもらいたいと思っております。
いつも有り難うございます。
紹介ありがとうございます。
東京にいたとき千葉神社は行けなくて
残念でした。
千葉氏は岐阜に来られて古今集の
講義をされ、歌を広められました。
そのことでも知られています。
今も岐阜の大和町に遺跡があります。
※余計なことかも知れませんが・・・
テンプレートにはみ出す画像、フォルダー登録のとき、1920ピクセルを選ぶと、自動的にテンプレートに収まると思います。その場合、画像を中央合わせにしています。文字は場合に応じて左合わせにしたほうがイイと思います。私のやり方ですが。