第62回目の終戦記念日となりました平成19年8月15日(水) の暑さ厳しき中、全国戦没者追悼式が日本武道館で行われました。
私は、千葉県参列者総勢197名の内の千葉市遺族会の一員として5年振り2回目の参列の機会を戴きました。
内閣総理大臣案内状 名札 千葉県章
上記を携え、県職員の皆様の誘導をいただき私たち一行は千葉護国神社からバスで会場に向かいました。
武道館へ到着して 追悼式斎場
天皇皇后両陛下のご臨席を賜り、内閣総理大臣が式辞を述べ、正午に黙祷を行いました後に天皇陛下がお言葉を述べられました。(写真は千葉日報より転載)
お言葉を述べられる天皇陛下
この御製 ・ 皇后宮御歌は、平成七年の戦後五十年に際し、特に賜ったものであります。
御製は、侍従長山本悟氏、皇后宮御歌は女官長井上和子氏が謹書されたものを複製したものであります。
財団法人 日本遺族会
御 製 戦後50年遺族の上を思ひてよめる
國がためあまた逝きしを悼みつつ平らけき世を願ひあゆまむ
皇后宮御歌 戦後50年遺族の上を思ひてよめる
いかばかり難(かた)かりにけむたづさへて君ら歩みし50年(いそとせ)の道
以上、御製・皇后宮御歌の2枚を参列者全員に頂きました。
当日は酷暑の中、高齢者も多く参列されましたが、参列した遺族の最年長はご長男がビルマ(現ミャンマー)で戦死されました
東京都の松岡コトさん101歳5ヶ月のお方でした。
これまでの101歳4ヶ月を上回る過去最高齢となりました事又、戦没者の親では唯一の参列者と報道されました。
式場に臨む唯一の母の松岡様
TV報道によりますと現在の東京大学に入学後まもなくの出征、戦死されましたことにどんなにか残念でございましたことでしょう。
松岡様のお母様のお気持ちを偲んで詠みました。 合掌
限りなく耐へて寂しき101歳武道館に息子(こ)を偲ぶ母
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15日は父を偲ぶ事が出来ましたが特別暑かったように思いました。
「アイドリンクストップバス」と言う事から式典終了時は
車中は40度にもなっておりました事、ガイドさんから聞きました。
急冷しては下さいましたが、千葉までの1時間余、扇子が止む
事が有りませんでしたが、20年8月15日の終戦記念日も
とても暑かったように聞いておりましたので往時を偲びました。
62回目の終戦記念日なのですね。
月日のたつのは早いものです。父もなくなってから12年目になります。あちらで戦友たちと今日の日を迎えていることでしょう。
いつまでも今の平和が続きますように祈らずに入られません。
しばらく振りに爽やかな朝を迎えホットしましたね。
ご親族の皆様に心からお悔やみを申し上げます。 合掌
あの暑かった62年前の8月15日祖父に言われるままに意味も
わからずラジオの前に正座して天皇陛下のお言葉を聞いたこと、
すでに父が戦死も知らず、母はこれで生還と思ったことでしょう。
本当に多くの皆様が辛い戦後を過ごして参りました。
毎日、目、耳にしたくない報道に命の大切さを祈るばかりです。
ささやかな幸せに大きな感謝の日々です。
楽しい旅をお祈りいたしております。
それでは後程FAXいたします。
今までの暑さがうそのように今朝は清々しい朝を迎えました。
お盆にはお兄様を偲んで会話が尽きなかったことでしょう。
私も御世話になりました日々を懐かしく思い出しておりました。
有り難うございました。
未熟ですが感謝を歌に詠み、一部を活字に致し、皆様にお渡し
できましたことも嬉しく思っております。
今後ともどうぞ宜しくお願いいたします。
お彼岸にお目にかかれましたら嬉しく存じます。
未熟なブログですが訪問者数70余名、閲覧数200Pを越えた
数字に驚きながらも感謝の気持ちでございます。
慰霊祭へのご出席お疲れ様でした。
私のいとこ達の父親は 軍人でしたので戦死しましたが母親(叔母)も苦労がたたり末の子の成人式のあと彼岸へ旅立ってしまいました。まだ50歳にもなっていませんでしたのに!
平和な暮らしに慣れすぎて 二度と過ちを犯すことのないよう一人一人が心しなければなりませんね!
PCのメールアドレスを FAXしていただけませんか。
旅行の写真 あとで送りたいのです。
戦没者慰霊祭お疲れ様でした。母として101歳の松岡様、そして遺児としてのoko様達、62年もの歳月が過ぎました。
私なども日ごろは戦後など忘れがちですが、兄の新盆に出向き新たに思い出しております。この兄も大正13年の生まれで出征いたしましたが、生きて帰り今日83歳まで同級生ともども元気に親しく人生を歩んでまいりました。
そして私は小学1年一人だけの疎開、田舎の学校へ転校、2年生敗戦、家族一同東京で焼け出されリヤカーひとつで逃げ延びてきたこと、その後東京へ嫁いだ後もほんとに62年故郷への墓参などなどなど、兄も居たことで年に何度もでした。
誰もがきりの無いほどの思い出がいっぱいです。
あなたのページを見ていつもいろいろのことを考えさせられています。これからも楽しみにしております。
暦の上では早くも立秋を迎えておりますが本当にお暑うございます。
お訪ねいただきご丁寧に恐縮でございます。
何時までも自己流で恥ずかしく存じますが、私的な日記とお許し
下さいませ。
この度も健康上の理由から直前のキャンセルも何人か有りました
ように伺いました。
申し込みの締め切りが早いものですから、私も含めて高齢化の折に
仕方が無いことかもしれません。
是非参列したいと申し出た従姉も実兄の新盆でキャンセルでした。
「新盆に従兄を偲ぶ」を8/12UP致しました方です。
語り部の親族が一人又一人と亡くなり父の思い出が皆無となります
ことがとても寂しゅうございますが今のささやかな幸せを大切に
過ごして参りたく存じます。
今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。
の折にご主人様どうぞお大事に
亡きお父上もさぞお喜びのことでしたでしょう。
今年はご一緒させていただく可能性がありながら、私的な都合で叶いませんでした。
お互い遺児という立場を同じくして歩んできたこの62年間、歳月の流れが否応なく戦争の記憶を風化させていることを実感せざるを得ません。
日々の暮らしの中で、戦争の残酷さと平和の大切さを、細々ながら語り継いでいく決意を新たにいたしました。
有難うございました。