平成22年度 千葉県戦没者追悼式
日 時 10月19日 (火)
会 場 千葉県文化会館
「式 辞」 千葉県知事 森田 健作様
この度、千葉県主催 戦没者及び戦災死没者の冥福を祈ります 千葉県戦没者追悼式 が執り行われました。
いただきました資料より
●日清戦争以後の千葉県の戦没者 57,248名
(日中戦争以後ですと、約52,000名です。)
●一般戦災死没者 1,320名
平成22年度の千葉県戦没者追悼式の参列者数
●遺 族 約1,000名
●来 賓 約 100名
●市町村職員等 約 100名 合計 約1,200名
犠牲になられました尊い多くの御霊に心からご冥福をお祈り申し上げます。 合掌
千葉県内、各市町村遺族代表の皆様が参列され、千葉県警察音楽隊によります「ふるさと」の演奏が流れる中、厳かに執り行われました。
千葉県健康福祉部長の開式のことばに続き、千葉県知事 森田 健作様 による 礼拝、黙祷、「式辞」 を戴きました。
森田 健作知事は「戦争の悲惨さと、平和の尊さを次の世代にしっかり伝え、恒久平和の実現に努力していくことを誓います。」と力強くお言葉を述べられました。
「追悼のことば」 遺族代表 法木 宏様 「献 花」 各市町村遺族代表
「追悼のことば」
千葉県議会議長
千葉県市長会代表
千葉県町村会代表
遺 族 代 表 君津市 法木 宏様
法木 宏様は中国で戦病死されましたお兄様の悲しい思い出を語られました。 合掌
「追悼のことば」
本日ここに来賓多数ご臨席のもと、平成22年度千葉県戦没者追悼式が厳粛のうちに挙行されましたことは遺族として誠にうれしく、衷心より御礼申し上げます
とともに、主催いただきました森田県知事をはじめ関係者各位に心から感謝を申し上げます。
先の大戦終結から早65年、刻々と変化する世界情勢の中で国も社会もそして人心も大きく変わりつつあります。かっての連帯意識は薄れ弱くなって来た感がございます。
思い起こせば私が小学3年生、空襲警報が鳴り敵機が飛来する度に物陰にかくれ又、松の幹から松脂を採り学校に持って行く時代でした。
学校近くに住んで居た仲間は艦載機グラマンの機銃掃射により亡くなりました。
当時、私の兄は小糸村農協に勤務しておりました昭和19年の暮れ、寒さも身に堪えるようになった12月半ば3人の仲間と共に、村民の打ち振る日の丸の小旗に送られ出征
いたしました。
結婚を約束した女性を置いていった気持ちはどんなであったろうかと思います。明けて20年の4月、戦地から私宛の便りが届きました。
「俺は支那大陸で頑張っている此の手紙が着く頃は、宏も4年生だろう。小さい妹の子守もしっかりやってくれ。勉強もガンバレ」 と、私への便りはそれが最後となりました。
終戦の翌年1月、兄は中国上海の兵站病院で戦病死、元気で内地に帰ることはありませんでした。
どんな思いで逝ったか知る由もありませんが、さぞ無念であったろうと思います。
今も世界には戦火を交えている国々があり国益をそして民族を守るという名のもとに人命を軽視した戦いが報道されるとき、一個人ではどうにもならない無力感に襲われ、胸がしめつけられます。
今、私たちに出来ることは、世界が安泰なる方向へ互いに努力し合うことを只々願うのみです。
地味ではありますが日々の遺族会活動を通じ、英霊憲章を続けることが肝要であることを思い今後も更に力を注ぐことを誓い、英霊各位のご冥福をお祈り申し上げ追悼のことばと致します。
平成22年10月19日
遺族代表 君津市 法木 宏
お兄様の御霊に心からご冥福をお祈り申し上げまして、ここに 「追悼のことば」 をご紹介させていただきました。
「献花」 は千葉県知事 森田 健作様を初めとして、国会議員、県議会議員、来賓、各市町村遺族代表の皆様で献花を捧げ閉式となりました。
翌20日の讀賣 ・ 千葉日報の各紙面の何処にも 「千葉県戦没者追悼式」 の記事が掲載されず、戦後65年、戦争の事実を風化させてはならないと新たな悲しみを覚えました。