いつもこころの中を覗いていた。雨が降っている。気温は低めで、湿度も高い。
暗闇がいつもそこに存在していた。しとしとと降る雨。灰色の世界の中に僕はいる。
僕のこころの中には真っ暗な階段が存在していた。僕はいつも躊躇する。
入口から下に見えるのは、含みのある闇。下ろうにも、足が震えて、動けなかった。階段の下に存在する、魑魅魍魎が僕を威嚇している。
「こころの奥底へいこう?」
誰とも知らない、誰かが、僕の耳の傍でささやいた。
周りはぼやけて、焦点の合わない視界の中に僕はいる。
雨は、雨脚を少し強めたようだ。周囲の音の乱れが、一段と増してくるのを感じる。テレビの砂嵐の音が強さを増すように。葉に落ちた雨粒がはじけて、地面に吸収される。その光景が、時間の進みが遅れるような錯覚を感じさせた。
こころの中は、いつも湿っていた。ぽたぽたと落ちる滴。飛び散る水滴の音は、闇に拡がっていく。こころの奥底の闇は、僕を支配していた。体の隅々まで拡がる黒い影。僕はなすすべもなく、あるがままに、川に流されるだけ。こころの迷いもいつかは大きな本流へ流れる。すべての汚れを混ぜた水を、どこまでも、川は運んでいく。
顔を上げると、そこにはいつもの風景があった。壁にかかっている一枚の絵。世界がさまざまな方向へ、さまざまな多様性とともに変わる世界。一枚の絵はただ静かに、ひっそりと、部屋の風景に溶け込む。机の上にずっと置いている、描きかけの絵。不完全な世界を置き去りに、こころの中は漠然と遠い未来を描いていた。
不意に不思議な気分に襲われた。何か緊迫するような、そんな気分。周りの物がふつふつと意味を持ちだして、それは瞬く間に、僕に襲いかかるのだ。僕は必死に自分の身を守る。顔をめいいっぱい伏せて、耳も手で塞いだりした。意味たちは、僕のその防壁の隙間という隙間から滲み寄せてくる。僕は声を荒げて、その場で卒倒した。意味の反乱と混乱。周りの物が、そして意味が、僕の体を蝕んでいく。まるで何もできず、ただ混乱し、意味は散乱する。
机の上の絵の世界が、開いていく。描きなぞる鉛筆は、その世界を露わにしていく。僕にも何ができるのかは分からない。世界が開闢して、新しい世界が始まる。雨は雨脚を少し弱めたようだ。雨の音がする。雨のにおいがする。僕はこの世界の中に生きている。僕が見ている世界。僕が感じている世界。全てが共鳴しあい、干渉しあい、作り上げる世界。
「僕は狂っている。」
流動する世界の中で、僕は声を荒げている。荒廃しきった、荒野の中を彷徨う。
時間は流れ、雨はやみ、雲は晴れて、空が現れる。時間の経過とともに、空の色は、青色から、紺色、そして暗闇になっていく。今まで見えなかった星たちが、瞬き始めた。夜闇に吹く風は北から南へ。今夜も冷えるかもしれない。僕は毛布にくるまって、冷えた手に暖かい吐息をかける。温もりは一瞬のうちに消えて、辺りの静寂に体温は溶け込む。僕の体も闇と同一化して、僕の目は虚ろになっていく。
空に輝く星。惑星が空を彷徨っている。蒼く透き通るような星空が、この町を覆っている。僕はそこに一瞬の安らぎを手に入れる。ゆっくりと、流れる時間を、僕は感じた。寂しげになる笛の音に合わせて。小さな天使が舞っている。ゆっくりと僕の手を引いて、その流れの中に引き込んでいく。目をつぶり、確かにかに感じる。時間。
僕の目に涙が流れた。今まで立ち込めていた暗雲、荒れ狂う嵐の雨風が引いていく。今流れの中にいる僕の心に、光が灯る。今まで拡がっていた闇、そして階段の下にいた魑魅魍魎が姿を消した。窓の外を見ると、東の空が明るく輝いている。一日の始まり。僕は毛布を脱いで、立ち上がり、戸を開ける。外の新鮮な空気を感じる。そして目の前に見えるのは、新しい一日の太陽だった。