(長文です。3月16日、「北海道美術史」の書名訂正しました。
2021年に「今田敬一編著『北海道美術史 地域文化の積み上げ』は貴重な資料だが、すでに乗り越えられるべき書物である」という記事を書きましたので、そちらもご覧ください)
今田敬一は、北大で林学を学ぶかたわら、有島武郎が創設にかかわった美術部「黒百合会」に入り、のちに道展(北海道美術協会)の創立会員となった。戦後は、道立美術館の建設期成会の役員となるなど、幅広く活躍している。
なによりも、彼の功績としてあげられるのが、「北海道美術史」の執筆・出版(1970年)だろう。この本において、「道内の美術史」が初めて体系的に記述されたのだった。
この展覧会は、彼自身の絵をはじめ、有島、能勢眞美、高橋北修、上野山清貢、山田正、長谷川昇といった、戦前の道内で活躍した画家や北海道出身の画家の作品をならべている。それぞれの絵の横に、「北海道美術史」をはじめとする今田の著述文からの抜粋を付けているのが特徴だ。
作品のほかにも、戦前の絵画展の図録や、美術展のおりに撮った写真などの、資料展示も多い。
したがって、筆者は見たことのある有名な作が多かったが、服部正夷、白青山、石野宣三といったあたりは初めて見た。
会場の最初に展示してあるのが、林竹治郎「朝の祈り」である。
文展に道内から初めて入選したことで知られる絵だ。
「朝の祈り」が、この場所に展示されるのは、もう何度目だろう?
林は旧制札幌中学(戦後の札幌南高校)の美術教師として、三岸好太郎らを教えたことで知られる。
この絵も、北海道の美術史を語る際には、かならず取り上げられる作品だ。
しかし、筆者はこれまでにも
「札幌の洋画史の幕開け」
と
「北海道の美術史の幕開け」
は、ほんとに同じことなのか?
-という問題提起を、何度かしてきた。
同じわけがない。
アイヌ文化も蠣崎波響も寺崎広業も黙殺するような北海道の美術史は、しょせん「札幌の美術史」でしかない。
「札幌イコール北海道の中心」
というのは、一見あたりまえのように思われるが、明治期の北海道の中心は函館であり、大正時代は小樽であった。少なくても経済では、そうだった。
だから、札幌の動きは、けっして北海道を代表しない。
今田の「北海道美術史」からもう40年がたっている。
歴史を最初に記述することの困難さと、業績の偉大さは否定できない。
しかし、だからといって、歴史観が更新されなければ、それは、歴史を記す者の怠慢でしかないだろう。
道立近代美術館は2007年になって、コレクション物語1977-2007 第Ⅲ章 北海道の美術 小玉貞良〈松前江差屏風〉から神田日勝〈室内風景〉までという展覧会を開き、ようやく、「朝の祈り」を1ページ目におく今田史観からの脱却するかに見えた。
しかし、今回の展覧会で、元に戻ってしまった観がある。
ただ、意地悪い見方をすれば、同美術館が館としての独自の歴史観を示しているのではなく
「これはあくまで、今田さんの見方なんですよ」
と逃げ道を用意しているような気がしないでもない。
さっき「絵」と書いたけれど、じつはこの展覧会には、絵画と資料しか出品されていない。
つまり、日本の近代彫刻でも名高い中原悌二郎などは黙殺されている。
いわんや、工芸や写真、版画をや。
会場には、今田の執筆した文章が載った新聞の切り抜きもガラスケースに収められて展示されている。
それとは別に、切り抜きのコピーをまとめたスクラップブックがテーブルに置かれ、自由に読めるようになっていた。
それ自体はありがたいことなのだが、奇妙なことに、ガラスケースのほうは北海道新聞が多く、スクラップブックに貼られているのは、すべて北海タイムス(1998年倒産)の記事なのだ。
以下に書くことは、筆者がリアルタイムで体験していることではないので、思い違いなどがあるかもしれない。
今田は道展のスポークスマン的な立場だった。戦後、全道展(全道美術協会)が北海道新聞社の肝いりで発足して有力会員が道展から多数移籍し、彼としては複雑な思いがあったのではないか。
今でこそ、道新はむしろ道展の記事を積極的に載せているが、戦争直後は両者はライバル関係にあり、道新の展覧会評は全道展に好意的で、道展には厳しかった。
今田の胸中には「道展の発足こそが、北海道の美術の幕開けにふさわしい」という思いがあり、だから「北海道美術史」が、道内各地の動きが道展に収斂するような流れになっている-。そう考えるのは、うがちすぎだろうか。
道展に軸足を置いていた彼の歴史観が、道展を通したものの見方になるのは避けられない。
中原悌二郎や丸木俊、大月源二らがこの展覧会でスルーされているのは、そもそも道展との接点が無く、今田の記憶に浮上してこなかったにすぎないのではないか。
(以下1文追記)
40年も昔の本が、その時点までの半世紀の歴史を叙述しているのに、それをそのまま提示することは、筆者にはちょっと奇妙に感じられるのだ。
■コレクション物語1977-2007 第Ⅲ章 北海道の美術 小玉貞良〈松前江差屏風〉から神田日勝〈室内風景〉まで
■かるたdeこれくしょん (2006年)
■時の貌/時の旅-20世紀・北海道美術(2003年)
■描かれた北海道 18、19世紀の絵画が伝えた北のイメージ (2002年)
2010年2月20日(土)-4月11日(日)9:30-5:00(入場-4:30)
道立近代美術館(中央区北1西17 地図D)
・地下鉄東西線「西18丁目」から5分
・中央バス、ジェイアール北海道バス「道立近代美術館」から1~2分(手稲方面行き、高速おたる号など、すべて停車します)
・市電「西15丁目」から9分
2021年に「今田敬一編著『北海道美術史 地域文化の積み上げ』は貴重な資料だが、すでに乗り越えられるべき書物である」という記事を書きましたので、そちらもご覧ください)
1.展覧会の概要
今田敬一は、北大で林学を学ぶかたわら、有島武郎が創設にかかわった美術部「黒百合会」に入り、のちに道展(北海道美術協会)の創立会員となった。戦後は、道立美術館の建設期成会の役員となるなど、幅広く活躍している。
なによりも、彼の功績としてあげられるのが、「北海道美術史」の執筆・出版(1970年)だろう。この本において、「道内の美術史」が初めて体系的に記述されたのだった。
この展覧会は、彼自身の絵をはじめ、有島、能勢眞美、高橋北修、上野山清貢、山田正、長谷川昇といった、戦前の道内で活躍した画家や北海道出身の画家の作品をならべている。それぞれの絵の横に、「北海道美術史」をはじめとする今田の著述文からの抜粋を付けているのが特徴だ。
作品のほかにも、戦前の絵画展の図録や、美術展のおりに撮った写真などの、資料展示も多い。
したがって、筆者は見たことのある有名な作が多かったが、服部正夷、白青山、石野宣三といったあたりは初めて見た。
2.「朝の祈り」は、北海道の美術史の幕開けか
会場の最初に展示してあるのが、林竹治郎「朝の祈り」である。
文展に道内から初めて入選したことで知られる絵だ。
「朝の祈り」が、この場所に展示されるのは、もう何度目だろう?
林は旧制札幌中学(戦後の札幌南高校)の美術教師として、三岸好太郎らを教えたことで知られる。
この絵も、北海道の美術史を語る際には、かならず取り上げられる作品だ。
しかし、筆者はこれまでにも
「札幌の洋画史の幕開け」
と
「北海道の美術史の幕開け」
は、ほんとに同じことなのか?
-という問題提起を、何度かしてきた。
同じわけがない。
アイヌ文化も蠣崎波響も寺崎広業も黙殺するような北海道の美術史は、しょせん「札幌の美術史」でしかない。
「札幌イコール北海道の中心」
というのは、一見あたりまえのように思われるが、明治期の北海道の中心は函館であり、大正時代は小樽であった。少なくても経済では、そうだった。
だから、札幌の動きは、けっして北海道を代表しない。
今田の「北海道美術史」からもう40年がたっている。
歴史を最初に記述することの困難さと、業績の偉大さは否定できない。
しかし、だからといって、歴史観が更新されなければ、それは、歴史を記す者の怠慢でしかないだろう。
道立近代美術館は2007年になって、コレクション物語1977-2007 第Ⅲ章 北海道の美術 小玉貞良〈松前江差屏風〉から神田日勝〈室内風景〉までという展覧会を開き、ようやく、「朝の祈り」を1ページ目におく今田史観からの脱却するかに見えた。
しかし、今回の展覧会で、元に戻ってしまった観がある。
ただ、意地悪い見方をすれば、同美術館が館としての独自の歴史観を示しているのではなく
「これはあくまで、今田さんの見方なんですよ」
と逃げ道を用意しているような気がしないでもない。
3.分野の問題
さっき「絵」と書いたけれど、じつはこの展覧会には、絵画と資料しか出品されていない。
つまり、日本の近代彫刻でも名高い中原悌二郎などは黙殺されている。
いわんや、工芸や写真、版画をや。
4.スクラップブック
会場には、今田の執筆した文章が載った新聞の切り抜きもガラスケースに収められて展示されている。
それとは別に、切り抜きのコピーをまとめたスクラップブックがテーブルに置かれ、自由に読めるようになっていた。
それ自体はありがたいことなのだが、奇妙なことに、ガラスケースのほうは北海道新聞が多く、スクラップブックに貼られているのは、すべて北海タイムス(1998年倒産)の記事なのだ。
以下に書くことは、筆者がリアルタイムで体験していることではないので、思い違いなどがあるかもしれない。
今田は道展のスポークスマン的な立場だった。戦後、全道展(全道美術協会)が北海道新聞社の肝いりで発足して有力会員が道展から多数移籍し、彼としては複雑な思いがあったのではないか。
今でこそ、道新はむしろ道展の記事を積極的に載せているが、戦争直後は両者はライバル関係にあり、道新の展覧会評は全道展に好意的で、道展には厳しかった。
今田の胸中には「道展の発足こそが、北海道の美術の幕開けにふさわしい」という思いがあり、だから「北海道美術史」が、道内各地の動きが道展に収斂するような流れになっている-。そう考えるのは、うがちすぎだろうか。
道展に軸足を置いていた彼の歴史観が、道展を通したものの見方になるのは避けられない。
中原悌二郎や丸木俊、大月源二らがこの展覧会でスルーされているのは、そもそも道展との接点が無く、今田の記憶に浮上してこなかったにすぎないのではないか。
(以下1文追記)
40年も昔の本が、その時点までの半世紀の歴史を叙述しているのに、それをそのまま提示することは、筆者にはちょっと奇妙に感じられるのだ。
■コレクション物語1977-2007 第Ⅲ章 北海道の美術 小玉貞良〈松前江差屏風〉から神田日勝〈室内風景〉まで
■かるたdeこれくしょん (2006年)
■時の貌/時の旅-20世紀・北海道美術(2003年)
■描かれた北海道 18、19世紀の絵画が伝えた北のイメージ (2002年)
2010年2月20日(土)-4月11日(日)9:30-5:00(入場-4:30)
道立近代美術館(中央区北1西17 地図D)
・地下鉄東西線「西18丁目」から5分
・中央バス、ジェイアール北海道バス「道立近代美術館」から1~2分(手稲方面行き、高速おたる号など、すべて停車します)
・市電「西15丁目」から9分
美術館には、およそふさわしくない
係員の連呼には驚きましたが、ロビー
にデンと構えたグッズ販売コーナーの
節操のなさに、ちょっと辟易しました。
まあ、これで少しでも美術館維持費の
足しになればと。
結局ピラミッド展は見ませんでしたが。
常設展ですから、所蔵している作品を
どうやって「着回す」か?並べ替えて
出すにもその辺りのコーディネイトは
センスが必要である訳ですが。
今回ヤナイさんの意見を読むに当って
「今回は力の入れてない展示だった」
と納得しました。
実は「今回も」だったんですね、残念。
ただ、40年前の歴史観を呈示するのであれば、それからの40年間で変わった部分も出すのがふつうじゃないかと。
そして、なぜいまさら40年前の歴史観をそのまま呈示するかという理由付けがあまりに薄弱ではないかと思いますね。
なんたって、1970年の時点で、1920~60年代を振り返った本ですからね。
まあ、今後、「今田敬一の眼」とは別の斬新な切り口で、戦前の北海道美術史を編集してくれるんじゃないでしょうか。大いに期待しています。
「朝の祈り」が毎回飾られているのは、素晴らしいことだと思います。明治に入り西洋文化が入ってきて初めての官展で入選をした人物。それが林竹治郎であります。そして、その教え子達が巣立ち北海道美術協会が発足したわけですから。その後色々な美術団体が出来るわけで北海道の美術が一つになり現在があるように思います。今回の展覧会で展示されていない分野もございますが今後を期待して温かい眼で見て行きたいですね。美術は、常に発見ですね。初めてみた作品があったと記載されていましたがこの3名は、それぞれ当時大変活躍された方々です。白青山は、札幌2中の図画教師となり後進の指導にあたり、多くの教え子を育て。服部正夷は、黒百合会で活躍をして当時の新聞には、重鎮と紹介される程の腕前でした。その後は、中展、台展で活躍をしたようです。石野宣三は、早くに亡くなられた方ですが道展、黒土社、春陽会等で活躍をされた画家のようですね。
これからも色々な画家が発掘されれば北海道美術史が更に面白くなるのではないでしょうか。
おっしゃるとおり歴史観が更新されなければ真実は後世に伝わりませんね。今後を期待したいですね。
最後に他のブログも拝見いたしました。とても
熱心で興味深く拝見致しました。
必要なのは、今田敬一の本に出てこない美術家にも視線を向けることではないかと。
たくさん書いて毎日更新していますので、また遊びにいらしていただければうれしいです。