詩人、批評家の吉本隆明さんが亡くなった。
筆者が住んでいる地域に配られる新聞は締め切りが早いため訃報は載っていない。
資料も手元にないので、記憶に頼って書く。誤りがあれば、ご指摘いただければ幸いです。
吉本隆明さんは87歳。
山形(だったと思う)の工業専門学校をへて、東京工大を卒業した。
筆者がまず思い出すのは「固有時との対話」「転位のための十篇」といった詩である。
旧かなづかいのこれらの詩行にしびれた人も多いのではないか。
鮎川信夫や田村隆一、黒田三郎などが発刊した、戦後を代表する詩誌「荒地」の末期に同人として参加していた。
その後、戦後批評のスターだった花田清輝との論争などで名を上げ、60年安保闘争では学生とともにデモに参加し、一時拘束もされた。
近年よりも、学生や知識人が政治に興味を持ち、発言、行動するのが一般的な時代であったが、共産党を強く批判して、行動にも出たことで、学生や若者からは熱い支持を得たという。
詩人の谷川雁、評論家の橋川文三と3人で雑誌「試行」を発刊、ここをよりどころとして、さまざまな文章を発表した。(谷川、橋川は少し後で同誌を離れ、吉本による独力刊行の時代が長かった)
1980年代初め、角川文庫から彼の代表作が立て続けに出た。
当時は、吉本隆明が文庫になったというだけでちょっとしたニュースだったし(まだ文庫自体がいまよりも少なく、名作小説などを収録するというイメージが残っていた)、それも、横溝正史や赤川次郎などでメディアミックス路線を走り出していた角川というミスマッチ感が話題になったものだ。
筆者も「共同幻想論」を読んでみたが、「やさしくなって登場」といううたい文句のくせにかなり難しく、どうしてこれが60年安保世代の若者に受け入れられたか、よくわからなかった。マルクスよりも柳田國男についての話の方がはるかに多いのだ。
いまにして思えば、「国家なんて自明のものじゃないんだよ」というメッセージがこめられていたのだろう。
(日本人は、国境のない国で暮らしているので、つい「日本」という枠組みを固定的なものとしてとらえがちなのだ)
同時期に文庫化された「言語にとって美とは何か」「心的現象論序説」などはさらに難解だった。
しかし、宮沢賢治をめぐる論考など、わりあい平易に読める本もある。
角川文庫から彼の著作が出た時期は、70年安保闘争の敗北と学生運動の沈静化によってやや忘れられかけていた吉本隆明が、復活したように受け止められた。
と同時に、コム・デ・ギャルソンを着て雑誌のグラビアに登場するなど、人々の欲望を肯定するような論調をとり、かつての、清貧に耐えて革命を志した層からは相当のブーイングを浴びていた。これは、80年代初めに盛り上がった反核運動に対してきわめて冷淡な姿勢をとったことも関係していよう。
さらに、娘の吉本ばななが「キッチン」などで人気小説家となり、いまの40歳以下にとっては「ばななの父親」として知られていると思う。
人によっては、「60年安保では過激、80年代は大衆の欲望を肯定。機を見るのに敏なだけ」と酷評する向きもある。たしかに「左翼の本流」には絶対に与しないという立場は変わっていない。そこに、彼なりの一貫したものがあるのかもしれない。
また、この20年ほどは「戦後最大の思想家」「戦後思想の巨人」という枕詞をつけて紹介されることが多かった。
柄谷行人や梅棹忠夫、加藤周一などにはまったく用いられることのないこれらの形容を、なぜ吉本が独占していたのか、それはこれから考える必要があるかもしれない。
なお、彼は基本的に文学畑の人であり、美術について発言したものを筆者は読んだ記憶がない。ご存じの方がいらっしゃれば、ご教示くださればありがたい。
筆者は彼の詩、それに、思想家というよりは大工みたいな面構えを好ましく思っていた。ご冥福をお祈りします。
※追記。彼は大学教授などにならず、小説も書かないのに、「試行」の定期購読や、評論の原稿料、印税などで生計を立てていた。「在野の知の巨人」であったことは、間違いない事実だと思う。
戦後思想界に大きな影響…吉本隆明さん死去(読売新聞) - goo ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120316-00000012-mai-soci
吉本隆明氏が死去 よしもとばななさん父 戦後思想に圧倒的な影響
筆者が住んでいる地域に配られる新聞は締め切りが早いため訃報は載っていない。
資料も手元にないので、記憶に頼って書く。誤りがあれば、ご指摘いただければ幸いです。
吉本隆明さんは87歳。
山形(だったと思う)の工業専門学校をへて、東京工大を卒業した。
筆者がまず思い出すのは「固有時との対話」「転位のための十篇」といった詩である。
ぼくがたふれたら
ひとつの直接性がたふれる
旧かなづかいのこれらの詩行にしびれた人も多いのではないか。
鮎川信夫や田村隆一、黒田三郎などが発刊した、戦後を代表する詩誌「荒地」の末期に同人として参加していた。
その後、戦後批評のスターだった花田清輝との論争などで名を上げ、60年安保闘争では学生とともにデモに参加し、一時拘束もされた。
近年よりも、学生や知識人が政治に興味を持ち、発言、行動するのが一般的な時代であったが、共産党を強く批判して、行動にも出たことで、学生や若者からは熱い支持を得たという。
詩人の谷川雁、評論家の橋川文三と3人で雑誌「試行」を発刊、ここをよりどころとして、さまざまな文章を発表した。(谷川、橋川は少し後で同誌を離れ、吉本による独力刊行の時代が長かった)
1980年代初め、角川文庫から彼の代表作が立て続けに出た。
当時は、吉本隆明が文庫になったというだけでちょっとしたニュースだったし(まだ文庫自体がいまよりも少なく、名作小説などを収録するというイメージが残っていた)、それも、横溝正史や赤川次郎などでメディアミックス路線を走り出していた角川というミスマッチ感が話題になったものだ。
筆者も「共同幻想論」を読んでみたが、「やさしくなって登場」といううたい文句のくせにかなり難しく、どうしてこれが60年安保世代の若者に受け入れられたか、よくわからなかった。マルクスよりも柳田國男についての話の方がはるかに多いのだ。
いまにして思えば、「国家なんて自明のものじゃないんだよ」というメッセージがこめられていたのだろう。
(日本人は、国境のない国で暮らしているので、つい「日本」という枠組みを固定的なものとしてとらえがちなのだ)
同時期に文庫化された「言語にとって美とは何か」「心的現象論序説」などはさらに難解だった。
しかし、宮沢賢治をめぐる論考など、わりあい平易に読める本もある。
角川文庫から彼の著作が出た時期は、70年安保闘争の敗北と学生運動の沈静化によってやや忘れられかけていた吉本隆明が、復活したように受け止められた。
と同時に、コム・デ・ギャルソンを着て雑誌のグラビアに登場するなど、人々の欲望を肯定するような論調をとり、かつての、清貧に耐えて革命を志した層からは相当のブーイングを浴びていた。これは、80年代初めに盛り上がった反核運動に対してきわめて冷淡な姿勢をとったことも関係していよう。
さらに、娘の吉本ばななが「キッチン」などで人気小説家となり、いまの40歳以下にとっては「ばななの父親」として知られていると思う。
人によっては、「60年安保では過激、80年代は大衆の欲望を肯定。機を見るのに敏なだけ」と酷評する向きもある。たしかに「左翼の本流」には絶対に与しないという立場は変わっていない。そこに、彼なりの一貫したものがあるのかもしれない。
また、この20年ほどは「戦後最大の思想家」「戦後思想の巨人」という枕詞をつけて紹介されることが多かった。
柄谷行人や梅棹忠夫、加藤周一などにはまったく用いられることのないこれらの形容を、なぜ吉本が独占していたのか、それはこれから考える必要があるかもしれない。
なお、彼は基本的に文学畑の人であり、美術について発言したものを筆者は読んだ記憶がない。ご存じの方がいらっしゃれば、ご教示くださればありがたい。
筆者は彼の詩、それに、思想家というよりは大工みたいな面構えを好ましく思っていた。ご冥福をお祈りします。
※追記。彼は大学教授などにならず、小説も書かないのに、「試行」の定期購読や、評論の原稿料、印税などで生計を立てていた。「在野の知の巨人」であったことは、間違いない事実だと思う。
戦後思想界に大きな影響…吉本隆明さん死去(読売新聞) - goo ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120316-00000012-mai-soci
吉本隆明氏が死去 よしもとばななさん父 戦後思想に圧倒的な影響