彫刻家の神山明さんが昨年12月24日に亡くなった。59歳だった。
神山さんは1953年東京生まれ、東京藝大大学院を修了し、横浜在住。団体公募展には所属していなかった。
89年にはサンパウロ・ビエンナーレに出品している。
だから、北海道ゆかりの作家ではないのだが、道内の美術ファンの記憶に残っているとすれば、道立旭川美術館が「たしか、このあたりだと思う」「いつもの道に迷いこむ」などを所蔵しているからだろう。
2007年、札幌芸術の森美術館で開かれた「ドラマティック・コレクション」、あるいは道立近代美術館の「現代木彫の潮流」など、道内で開かれたグループ展には、何度も陳列されていた。
「たしか…」など、1980~90年代の作品は茶色の木材で作られ、風景や建築の模型のように見える。
これが、見ているうちに、なんともいえずなつかしい気持ちになってくるのだ。
わたしたちは、古いものになつかしさを覚える。
ただ古い意匠を持ち出してきて、作品に取り入れるのは、誰にだってできるだろうが、神山さんの作品はそういうものではない。
はしごや板の床だけでは、なつかしさを感じさせるには至らない。
神山さんの作品には、「迷い込む」という感覚がある。
幼児のころ、こびとになって、おもちゃの置いてある中や、部屋にある家具の中に、迷い込んだ遠い記憶が、見ているうちによみがえってくるようなのだ。
西洋でも日本でもなく、特定の時代を表象しているわけでもなく、具体的ななにかの建築や風景に似ているというわけでもない。
にもかかわらず、ある種の郷愁を感じさせる、ふしぎな作品だ。
ただし、近年は作風をがらりと一変させ、白い紙を幾何学的に組み合わせた、荘厳さを漂わせる作品を発表していた。
筆者は神山さんにお会いしたことはない。
ただ、偶然、ツイッターでフォロー・フォロワーの関係になった(アカウントは @wakoak 。そういえば、森本めぐみさんとも時々会話していた)
ブログ「影のおちる時間」はあまりにおもしろく、自分といろいろなところで、考えていることがぴたりと一致しており、とうとう全文を読んでしまった(残念ながらこのブログはすでに存在しない。当ブログの「大震災に思う」に、ごく一部が引用してある)。
ツイッターで会話していたら(たとえば、2010年8月19日。twilogによると、44回のやりとりをしている)、昨年5月、とつぜん作品集が贈られてきた。
最初のページに「たしか…」が印刷されていた。
うれしかったので、ゆっくりとページを繰って、なつかしい作品の写真を見つめていた。
そのうち神山さんはツイッターよりもフェイスブックに長くいるようになったらしい。
筆者はフェイスブックはあまりまじめにやっていないので、病気のことなどもまったく知らなかった。
いただいた作品集の後書きの最後に
うまく行けば、あと30年間、僕には制作の時間がある。
30歳のころ、考えに考えて新しい作品を作ったように、いまもう一度、考えに考えて新たな作品に取り組んで行きたいと思っている。
とあった。
さぞ、無念だったと思う。
神山さんの作品は、芸術の歴史に大きな文字で残るものではないかもしれない。
しかし、論理的、整序的に組み立てられた美術史の流れからは少し離れた場所で、少数だが熱心な愛好者にいつまでも大切にされる作品ではないだろうか。そういう意味では、流行や趨勢とは関係なしに、いつまでも残っていく芸術なのだと思う。
□神山明のホームページ http://www.kamiyama-akira.com/
□宇部市の彫刻 http://www7b.biglobe.ne.jp/~photo-oyaji/sample5/022kamiyama_a.html