赤瀬川原平さんが亡くなった。
北海道新聞では1面に死亡記事を掲載した。
それにしても、カバーする領域の広い人だったと思う。
とくにファンだったというわけでもなく、直接会ったこともない筆者でも、思いだすことがいっぱいある。
以下、なんの脈絡もなく、つづってみよう。
1
筆者が赤瀬川氏の表現に最初にふれたのは、1970年の「現代詩手帖」だったと思う。
リアルタイムには若干遅れてではあるが、朝日新聞(大阪本社版以外)の題字をパロディー化して「現代詩手帖」にあてはめたり(表紙絵は林静一。時代だなあ)、中ページでは、シイタケが銭湯に入っているなどのふざけたイラストを載せていた。
いま、考えるとなんでそんな絵が「現代詩手帖」に掲載されていたのか、よくわからないが、学生運動やカウンターカルチャーの高揚を受けて、雑誌も相当にアナーキーなことをやっていた時代だったのだ。
2
石油ショック、「ノストラダムスの大予言」ブームなど、1970年代前半の世相の暗さといったら、昨今の比ではなかった。
そんな中で筑摩書房から出ていた伝説的な雑誌が、その名も「終末から」。
赤瀬川さんは、そこに「櫻画報」を連載していた。
馬オジサンと泰平少年が活躍するパロディ・イラストレーションである。
いや、これは後で知ったのだが、「櫻画報」はもともと「朝日ジャーナル」に連載されていた。
若い人は知らないかもしれないが「朝日ジャーナル」は朝日新聞社が出していた週刊誌で、朝日新聞本紙よりも進歩的な論調で、大学生などによく読まれていた。60年代末の流行語に「右手にジャーナル、左手にマガジン」というのがあったほどだ(マガジンは「少年マガジン」のこと。当時は、エリートである大学生が、漫画のような子どもっぽいものを読むとは! という驚きの意味がこめられていた)。
ただし、美術史的には、表紙の下3分の1に、毎週異なる新進・中堅の画家の絵を載せていたことが重要である。
で、「朝日ジャーナル」に「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」という絵(これは、戦前の国定教科書のパロディ)を載せたところ、表紙のヌード写真とあいまって朝日新聞社上層部の逆鱗にふれてしまい、掲載誌は回収。「櫻画報」も連載打ち切りとなって、いろいろな雑誌をさまよっていた。
この号、実家にあったような気がするぞ…。
ところで、このどこまでもフザケたイラストと文章の集成は、単行本としてまとめられた後、新潮文庫で「櫻画報大全」として発刊された。
これ、古本屋で見つけたら、即ゲットしてね。
3
筆者は世代的に、60年代以前の前衛美術家としての赤瀬川氏を知るのは、その後のことになる。
そして、それについては、このブログの読者のほうが詳しいであろう。
彼が世に出るきっかけとなったのは「千円札裁判」であった。
この最初の報道で、彼の肩書が「自称芸術家」になっていたことは、よく知られている(と思う)。
4
60年代の氏は、ネオダダ・オルガナイザーズに参加した後、高松次郎、中西夏之とともに「ハイ・レッド・センター」を結成。
なんだかかっちょいいグループ名に聞こえるが、単に3人の姓の頭文字を英訳してつなげただけである。
このグループは精力的に活動した。
「山手線事件」「ドロッピングイヴェント」「シェルター計画」などが「東京ミキサー計画」(ちくま文庫)で紹介されているが、なかでも有名なのは、表紙に写真が載っている「首都圏清掃整理促進運動」であろう。
オリンピックを前に東京の街路を清掃しようという、表向きには誰も反対できないお題目だが、白衣を着たメンバーたちが銀座の道路を勝手に占拠して(車も止めて)清掃活動をしていたんだから、「公と私」あるいは「権威、権力とは何か」など、さまざまなことを考えさせるハプニング(パフォーマンス)であったといえる。
ちなみに、以前もツイートしたが、この本の表紙で、右側に写っているビルは、北海道新聞東京支社である。
ここには現在、ルイ・ヴィトンの旗艦店がある。
こんど「聖地巡礼」をしてみようかな。
5
また、赤瀬川氏個人としては、いろいろなものを梱包する芸術活動の末に「宇宙を梱包する」として、カニの缶詰の内側にラベルを貼った作品がある(1964)。
これは、「逆転の発想」の極限とでもいうべきもので、すごい。
カニの缶詰というあたりが、ビンボーくさいけどちょっとゼイタクしてみました感がにじみ出ていて、またいい。
6
なお「千円札事件」で有罪が確定したあと、氏は、「無限円」などという作品を発表している。
これは、お札の版が袋に入っていて刷ればお札が生まれる―というコンセプトのもの。
要するに、決してこりていないんだよね(笑)。
それでいいんだけど。
7
70年代後半から、赤瀬川氏は「尾辻克彦」名義で小説を書くようになり、芥川賞まで取った。
美術家で小説も書く人といえば、池田満寿夫、司修が思い浮かぶ。
赤瀬川氏のおもしろいところは、のちに「赤瀬川原平・尾辻克彦 共著」なんていう本も出してしまうところである。これは、普通の人にはなかなかできないことだ。
8
1980年代の赤瀬川氏といえば「超芸術トマソン」である。
街にひっそりと存在しているが、当初の用を失って無用の長物と化しているものに「美」を発見する、というもので、これまた「美術」を根底から考えさせる契機になるものを持っていた。
しかし、赤瀬川氏は、そういう堅苦しいことはあまり考えず、東京のあちこちに、建物が取り壊されて階段のみが残った「純粋階段」や、高所にあるドア、隣接する建物がなくなって日焼けの跡のような模様が壁に残った「原爆タイプ」など、さまざまな「トマソン」を発見し、記録しては、面白がっていたようだった。
筆者もこれには影響を受け、当時は東京に住んでいたので、散歩をしながらトマソン発見に夢中になっていた。
この「超芸術トマソン」もちくま文庫から出ている。
まあ、買わなくてもいいから、とにかく表紙だけでも見てもらいたい。
怖い。
とくに、高所恐怖症の人には耐えられないだろう。
赤瀬川氏の知人が、みなで「トマソン」探索中、再開発前の六本木の一角に残っていた煙突のてっぺんによじ登り、棒の先にカメラを取り付けて撮影したものという。
高さ数十メートルの煙突の頂上に、手を放して立つ。
考えただけでも、くらくらとめまいがしてきそうだ。
なお、今にして思えば、「トマソン」の数々は、あのバブル景気で徹底的に破壊される「昭和の東京」の貴重な記録にもなっているのである。
9
このころ、月刊「マリクレール」の最終ページに連載していたのが「ぱくぱく辞典」である。
五十音順に食べ物の思い出を記していく…。と書くと、いかにも投げやりでやる気のないエッセーのように思われるかもしれないが、意外におもしろく(やはり文章力のせいだろう)、毎月楽しみにしていた記憶がある。
10
また、南伸坊、ねじめ正一との3人での共著に「こいつらが日本語をダメにした」(ちくま文庫)がある。
書名だけ見ると、保守的文化人が日本語の乱れを嘆いているかのような中身が連想される。
しかし、読み始めると、3人が「黒山の人だかりは何人からか」「どんぶり勘定って、いくらぐらいか」など、どうでもいい話題について、エンエンと議論しているだけの本なのである。
筆者がこれまで読んだ本の中でも最も中身のない本だといえそうだが、あまりのばかばかしさがかえってすがすがしい。
11
これ以降の、日本美術応援団とか、ライカ同盟・中古カメラの話とか、新明解国語辞典とか、老人力については、筆者はよく知らないので、割愛したい。
12
ただ、赤瀬川氏の思考の常として「ちょっとひねって見る」「離れて見る」というくせがあるように思われ、それは、「コンセプチュアルアート」「パロディー」を成立させる淵源になっているような気がしてならない。
いうなれば、赤瀬川氏の生涯全体が「コンセプチュアルアート」であり「パロディー」なのだといえないだろうか。
北海道新聞では1面に死亡記事を掲載した。
それにしても、カバーする領域の広い人だったと思う。
とくにファンだったというわけでもなく、直接会ったこともない筆者でも、思いだすことがいっぱいある。
以下、なんの脈絡もなく、つづってみよう。
筆者が赤瀬川氏の表現に最初にふれたのは、1970年の「現代詩手帖」だったと思う。
リアルタイムには若干遅れてではあるが、朝日新聞(大阪本社版以外)の題字をパロディー化して「現代詩手帖」にあてはめたり(表紙絵は林静一。時代だなあ)、中ページでは、シイタケが銭湯に入っているなどのふざけたイラストを載せていた。
いま、考えるとなんでそんな絵が「現代詩手帖」に掲載されていたのか、よくわからないが、学生運動やカウンターカルチャーの高揚を受けて、雑誌も相当にアナーキーなことをやっていた時代だったのだ。
石油ショック、「ノストラダムスの大予言」ブームなど、1970年代前半の世相の暗さといったら、昨今の比ではなかった。
そんな中で筑摩書房から出ていた伝説的な雑誌が、その名も「終末から」。
赤瀬川さんは、そこに「櫻画報」を連載していた。
馬オジサンと泰平少年が活躍するパロディ・イラストレーションである。
いや、これは後で知ったのだが、「櫻画報」はもともと「朝日ジャーナル」に連載されていた。
若い人は知らないかもしれないが「朝日ジャーナル」は朝日新聞社が出していた週刊誌で、朝日新聞本紙よりも進歩的な論調で、大学生などによく読まれていた。60年代末の流行語に「右手にジャーナル、左手にマガジン」というのがあったほどだ(マガジンは「少年マガジン」のこと。当時は、エリートである大学生が、漫画のような子どもっぽいものを読むとは! という驚きの意味がこめられていた)。
ただし、美術史的には、表紙の下3分の1に、毎週異なる新進・中堅の画家の絵を載せていたことが重要である。
で、「朝日ジャーナル」に「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」という絵(これは、戦前の国定教科書のパロディ)を載せたところ、表紙のヌード写真とあいまって朝日新聞社上層部の逆鱗にふれてしまい、掲載誌は回収。「櫻画報」も連載打ち切りとなって、いろいろな雑誌をさまよっていた。
この号、実家にあったような気がするぞ…。
ところで、このどこまでもフザケたイラストと文章の集成は、単行本としてまとめられた後、新潮文庫で「櫻画報大全」として発刊された。
これ、古本屋で見つけたら、即ゲットしてね。
筆者は世代的に、60年代以前の前衛美術家としての赤瀬川氏を知るのは、その後のことになる。
そして、それについては、このブログの読者のほうが詳しいであろう。
彼が世に出るきっかけとなったのは「千円札裁判」であった。
この最初の報道で、彼の肩書が「自称芸術家」になっていたことは、よく知られている(と思う)。
60年代の氏は、ネオダダ・オルガナイザーズに参加した後、高松次郎、中西夏之とともに「ハイ・レッド・センター」を結成。
なんだかかっちょいいグループ名に聞こえるが、単に3人の姓の頭文字を英訳してつなげただけである。
このグループは精力的に活動した。
「山手線事件」「ドロッピングイヴェント」「シェルター計画」などが「東京ミキサー計画」(ちくま文庫)で紹介されているが、なかでも有名なのは、表紙に写真が載っている「首都圏清掃整理促進運動」であろう。
オリンピックを前に東京の街路を清掃しようという、表向きには誰も反対できないお題目だが、白衣を着たメンバーたちが銀座の道路を勝手に占拠して(車も止めて)清掃活動をしていたんだから、「公と私」あるいは「権威、権力とは何か」など、さまざまなことを考えさせるハプニング(パフォーマンス)であったといえる。
ちなみに、以前もツイートしたが、この本の表紙で、右側に写っているビルは、北海道新聞東京支社である。
ここには現在、ルイ・ヴィトンの旗艦店がある。
こんど「聖地巡礼」をしてみようかな。
また、赤瀬川氏個人としては、いろいろなものを梱包する芸術活動の末に「宇宙を梱包する」として、カニの缶詰の内側にラベルを貼った作品がある(1964)。
これは、「逆転の発想」の極限とでもいうべきもので、すごい。
カニの缶詰というあたりが、ビンボーくさいけどちょっとゼイタクしてみました感がにじみ出ていて、またいい。
なお「千円札事件」で有罪が確定したあと、氏は、「無限円」などという作品を発表している。
これは、お札の版が袋に入っていて刷ればお札が生まれる―というコンセプトのもの。
要するに、決してこりていないんだよね(笑)。
それでいいんだけど。
70年代後半から、赤瀬川氏は「尾辻克彦」名義で小説を書くようになり、芥川賞まで取った。
美術家で小説も書く人といえば、池田満寿夫、司修が思い浮かぶ。
赤瀬川氏のおもしろいところは、のちに「赤瀬川原平・尾辻克彦 共著」なんていう本も出してしまうところである。これは、普通の人にはなかなかできないことだ。
1980年代の赤瀬川氏といえば「超芸術トマソン」である。
街にひっそりと存在しているが、当初の用を失って無用の長物と化しているものに「美」を発見する、というもので、これまた「美術」を根底から考えさせる契機になるものを持っていた。
しかし、赤瀬川氏は、そういう堅苦しいことはあまり考えず、東京のあちこちに、建物が取り壊されて階段のみが残った「純粋階段」や、高所にあるドア、隣接する建物がなくなって日焼けの跡のような模様が壁に残った「原爆タイプ」など、さまざまな「トマソン」を発見し、記録しては、面白がっていたようだった。
筆者もこれには影響を受け、当時は東京に住んでいたので、散歩をしながらトマソン発見に夢中になっていた。
この「超芸術トマソン」もちくま文庫から出ている。
まあ、買わなくてもいいから、とにかく表紙だけでも見てもらいたい。
怖い。
とくに、高所恐怖症の人には耐えられないだろう。
赤瀬川氏の知人が、みなで「トマソン」探索中、再開発前の六本木の一角に残っていた煙突のてっぺんによじ登り、棒の先にカメラを取り付けて撮影したものという。
高さ数十メートルの煙突の頂上に、手を放して立つ。
考えただけでも、くらくらとめまいがしてきそうだ。
なお、今にして思えば、「トマソン」の数々は、あのバブル景気で徹底的に破壊される「昭和の東京」の貴重な記録にもなっているのである。
このころ、月刊「マリクレール」の最終ページに連載していたのが「ぱくぱく辞典」である。
五十音順に食べ物の思い出を記していく…。と書くと、いかにも投げやりでやる気のないエッセーのように思われるかもしれないが、意外におもしろく(やはり文章力のせいだろう)、毎月楽しみにしていた記憶がある。
また、南伸坊、ねじめ正一との3人での共著に「こいつらが日本語をダメにした」(ちくま文庫)がある。
書名だけ見ると、保守的文化人が日本語の乱れを嘆いているかのような中身が連想される。
しかし、読み始めると、3人が「黒山の人だかりは何人からか」「どんぶり勘定って、いくらぐらいか」など、どうでもいい話題について、エンエンと議論しているだけの本なのである。
筆者がこれまで読んだ本の中でも最も中身のない本だといえそうだが、あまりのばかばかしさがかえってすがすがしい。
これ以降の、日本美術応援団とか、ライカ同盟・中古カメラの話とか、新明解国語辞典とか、老人力については、筆者はよく知らないので、割愛したい。
ただ、赤瀬川氏の思考の常として「ちょっとひねって見る」「離れて見る」というくせがあるように思われ、それは、「コンセプチュアルアート」「パロディー」を成立させる淵源になっているような気がしてならない。
いうなれば、赤瀬川氏の生涯全体が「コンセプチュアルアート」であり「パロディー」なのだといえないだろうか。
文中に「リアルタイムに若干遅れて」とあるとおり、くだんの現代詩手帖を見ていたのは、70年代末なので、そんなに早熟でもないですよ。