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オホーツク小さな旅(91) 遠軽→ 北見

2020年01月26日 16時35分18秒 | つれづれ日録
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 このブログは最近、旅先のことばかり書いているので、人によっては、筆者はしょっちゅうあちこちに出かけていると思っておられるかもしれないが、大半の日は遠軽支局管轄の3町(遠軽、湧別、佐呂間)内にいるのが実情だ。北見には出張などで時折訪れるが、それ以外の土地にはそれほどひんぱんに行っているわけではない。
 一番大きな理由は、なかなか連休が取れないこと。
 昔と違って、週2日は休むようにしているが、土日は交代で出ているし、その代わりに休む日は、取材予定の有無に合わせるため、平日にバラバラになることが多い。
 筆者がいま住んでいるところは、札幌まで片道3時間半以上かかる。連休でないと行きにくいのだ。
(これでも、北見や網走の人に言わせると「オホーツク地方の中では、遠軽は札幌が近くていいね」ということなのだそうだ)

 夏は長期休暇を取るので、昨年の夏休みのことをいまなおエンエンと書いている―というわけなのである。

 しかし、時には仕事を休んで、短くてもよいから旅をしないと、息が詰まってくる。


 ある冬の土曜日。
 北見の美術館に「歌川広重 二つの東海道五拾三次」を見に行くことにした。


 遠軽と北見の間は、1日に特急が4本、快速を含む普通列車が5本走っている。
 路線バスは2013年に一部廃止となり、遠軽町生田原清里と北見市留辺蘂の間の区間がなくなってしまった。

 したがって
「次の列車まで2時間半」
などというのはザラにあり、乗り遅れるとたいへんなことになってしまう。
 筆者は午前10時32分発の「特急オホーツク1号」を利用した。
 北見まで57分で着く。

 ただし、この日は、遠軽を発車した時点で数分の遅れが出ていた。

 最近はすいていることの多い石北線の特急だが、この日は7割方の席が埋まっていた。
 筆者が乗り込んで最初にしたことは、坐席を確保して、前後の乗客にいすの回転を促すことだった(遠軽から列車の進行方向が逆になるのだ)。後ろは中国人とおぼしき家族連れで、つたない英語をしゃべる羽目になってしまった。春節(旧正月)を利用して観光に来ているのだろう。

 道内のJRの特急列車からこの数年で、車内販売が姿を消したが、特急オホーツクや大雪では、沿線の観光協会が協力しあって週末の車内で特産品の販売などを行っている。
 この日はたまたま遠軽の観光協会のメンバーが乗り合わせていたので、これは買わないわけにはいかない。
 かぼちゃプリンと、ホットコーヒーを買った。
 コーヒーの到着が相内(北見の三つ手前の駅)のあたりだったので、飲みきれず、改札口を出てから残りを飲み干した。


 まずは昼食。
 美術展に行くまでの間、コーチャンフォー北見店に寄るので、そのすぐ近くにある食堂「A」に寄ることにした。

 北見信金本店前にある北海道北見バスの停留所から「1番」の市内路線に乗り、「柏陽高校」へ。

 ここは、もともとそば屋である。そばも悪くはないが、豚丼がうまい。
 筆者はそれほど多くの店で食べているわけではないが、一昨年、彫刻家の岡沼さんに連れて行ってもらった帯広の「E」の次に豚丼がうまい店だと思っている。

 店に入って、つい反射的に「豚丼セット」を註文してしまうが、肉がもう1枚多くついているセットなどもあり、もう少しじっくりメニューを見てから決めるべきであったかもしれない。

 右は温かいそば。天かすが浮かんでいる。


 食べ終えた後、コーチャンフォーへ。
 前回来たときに、人文系や美術書などの品ぞろえにはあまり期待できないことがわかったが、それでも
芦原伸『ラスト・カムイ 砂澤ビッキの木彫』(白水社)
マルクス・ガブリエル『新実存主義』(岩波新書)
阿部岳『ルポ沖縄 国家の暴力』(朝日文庫)
の3冊を買った。


 歩道橋を渡って「小泉7号」の停留所からふたたび1番のバスに乗る。
 往路は最初、立っていたほど込んでいたが、今度はすいていた。

 「野付牛公園入口」で降車。

 近くにあったドラッグストアはカレー店になり、サンホームビデオは跡形もなくなり、三輪公園の横にあったインド料理店が近くに移転してきていた。

 公園の中にある北網圏北見文化センター美術館へ。
 なぜか、本社のAデスクにばったり会った。

 午後2時からは学芸員によるギャラリートークがあり、40人以上は集まっていたのではないだろうか。なかなか盛況だった。
 展覧会については別項で。

 センター1階の、新聞紙迷路をくぐり、カフェの富沢裕子展をのぞいてから、北網圏北見文化センターを後にした。
 凍てついた下り坂を歩いて、バスの走る国道へ。
 この坂の途中にかつてホテル赤坂という建物があり、この坂を「赤坂」と呼ぶ人もいたが、坂が以前から赤坂という名だったのか、それとも東京の盛り場の地名にあやかってホテルを命名しただけなのかは、わからない(どうも後者ではないかと思われる)。


(長くなってきたので、別項に続く) 


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