北海道美術ネット別館

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アートと市場について考えた(1)

2008年10月27日 22時20分37秒 | つれづれ読書録
(長編につき、3つのエントリに分割して掲載します)


 本屋さんの美術書の棚に行くと、作品そのものの解説とか作家の評伝、画集などが多いのは当然なんですが、さいきん、美術と市場やカネについての本が多いような気がしませんか?
 そこで、新刊の棚から、2008年に発売された本3冊を買って、読んでみました。

小山登美夫「現代アートビジネス」(アスキー新書 743円)

吉井仁実「現代アートバブル いま、何が起きているのか」(光文社新書 740円)

新見康明「日本人は世界一間抜けな美術品コレクター」(光文社ペーパーバックス 952円)

です。

 もちろんこの3冊は、論議の展開や、とりあげている範囲に、いくらか違いがあります。
 そして、どの本も、1冊で過不足なしに現代アートと市場という問題をカバーしているものとは思えませんでした。
 ただ、まとめて読んでみて、最初の感想は
「東京と札幌は、別の国だ」
という、ため息まじりのものでした。

 ごく大ざっぱにいうと、これまでの「画商」「美術・骨董商」とはちがい、現代のギャラリストというのは、美術家を育て、世界や日本のアートフェアで売り出す-というのが、とくにはじめの2冊での趣旨です。
 しかし、北海道には、貸しギャラリーはたくさんありますが、ここでいう「ギャラリスト」という存在はほぼ皆無といっていいでしょう(「現代アート」という枠をはずせば、旭川に「ギャラリスト」に近い活躍をしている女性がいますが)。
 praha projectやエスエアは、オルタナティブスペース、アートインレジデンスという領域では、着実に成果を上げています。しかし、こと商業ギャラリーとなると、道内には、昔ながらの絵画・彫刻を扱う画廊が少数あるだけではないかと思います。
 この点では札幌は、首都圏・関西はもちろん、名古屋にも大きくおくれをとっているのです。

 札幌圏の経済規模が、名古屋圏に大きく見劣りするのは事実です。だけど、もうちょっとどうにかならないかという思いは、正直言ってぬぐえません。

 「学校を卒業したら、いったいアートでどうやってメシを食っていくか」
というのは、きわめて大きな問題にもかかわらず、札幌では等閑に附されてきた感があります(要するに、ほうっておかれたのです)。
 筆者は、この問題についてくわしく取材したことはありません。美術とまったく無関係のところから月給をもらっている身なので、立ち入って述べる資格はないかもしれませんが・・・
 これまでの美術家たちは、学校の先生になるか、あるいは、いわばレッスンプロとして、カルチャーセンターの講師で口を糊する-といった方策でしのいできたのではないでしょうか。
 作品(室内装飾など、広義の作品を含めて)を売るだけで生活していくことはそうとうに難しいことではないかと思われます。

 だとしたら、いまの札幌に必要なのは、あたらしい貸しギャラリーではなく、道内外の顧客に作品を売りさばくとともに、作家を、国境を越えた市場に押し出していく、「ギャラリスト」ではないかと思います。
 これ以上、貸しギャラリーが増えても、売れる見込みのない作品の山が築かれるだけで、きちんとした批評を受けることもなく、微温的な評言とわずかな記録とが、狭い社会のなかでぐるぐる回っていくだけだと思います。
 もちろん、趣味の範囲でやっている作り手であれば、それでいっこうにかまわないわけですが。

 ちょっと話はそれますが、旧来の団体公募展というのは、その意味では、地方の作品も東京在住者の作品もまったくおなじ俎上に上げるとともに、地方在住者の情報収集の場としても、それなりの意義はあったと思うのです。東京都美術館にならぶ作品の作者が、どこに住んでいようが、画商や評論家の目に留まる確率は同じなのですから。
 しかし、以上の3冊には、団体公募展の話はひとことも出てきません。道内や、「月刊美術」に登場するような昔ながらの画廊の世界を別にすれば、団体公募展という存在自体は、完全に過去のものになってしまったのでしょうか。だとすれば、北海道のような僻遠の地に住む者にとっては、なおさら売り出し方に苦労がいる時代になったということなのかもしれません。

 筆者は、すぐ上の段落で記したことについて、べつに価値判断を示そうとは思いませんし、団体公募展でがんばっている人たちが反感を示すであろうことも想像がつきます。
 そして、いまのジャーナリズムが、団体公募展をまったく黙殺し、現代アートばかりに目を向ける現状もどうかと思っているのも正直なところです。
 ただ、団体公募展の世界が、どんなにがんばっても、完全なdomesticな世界であって、国内で完結しているのに対し、いわゆる現代アートが、国外へ接続の道がひらかれていることは、疑いのないことなのです。

 そして、札幌の現代アートの世界が、国外はおろか、東京へも回路を作れていないことも、残念ながら事実です。手をこまねいていれば、この傾向は強まる一方ではないでしょうか。


 総論はいったん終えて、それぞれの本についての感想にうつります。

 「現代アートビジネス」は、帯にこうあります。

奈良美智、村上隆を世に出した仕掛け人が語る、アートとお金の関係とは?


 そのとおりの内容です。
 世界のアートフェアの現状、海外の新進気鋭のギャラリー、プライマリー・プライスとセカンダリー・プライスといった事柄について、わかりやすく解説してあります。

 ただし、これまで「北海道美術ネット」では何度も書いてきた、日本独特の事情、すなわち、「団体公募展」系と「現代アート」系の完全な分裂状態については、なにもふれられていません。
 前者については、まったく存在しないものとされています。
 筆者の目からみれば、松井冬子とか大岩オスカールとか、べつに前者の絵とどこも違わないと思うのですが、「団体公募展」扱いにはなっていません。ここらへんのからくりは、もう少し知りたかったです。

 末尾のほうに、おもしろい提言がありました。  
  
 2007年、アメリカ抽象表現主義絵画の巨匠マーク・ロスコの作品が7280万ドル(87億円)で落札されました。同じ87億円分の外貨を稼ぎだす日本の現代アートは思い当たりません。
 代わりに日本車を輸出するとしたら、いったい何台輸出すればいいか。1台200万円としても、4000台以上です。1人の営業マンが売るとしたら、何年かかるでしょうか。それに4000台の車から、どれだけの排ガス出ますか?(原文ママ) でも、ロスコは出しません。相続税はかかりますが、保険などの維持費もかかりません。極端な例ですが、経済活動としてはすごい効率だと思いませんか?
 アメリカ抽象表現主義絵画は、芸術としてとても価値があるものです。しかし、その芸術活動と価値付けを 、国が意識的にバックアップしたことは忘れてはならないでしょう。(188ページ)


 そして

 美術館の役目は、エンターテインメントとしての展覧会を企画し、教育普及させるだけではありません。本来は、自国で生まれるアートの中から優れたものをいち早く見極めてコレクションするのも、重要な存在意義であるはずです。アートの価値をみずから生み出していく「権威」であるべきなのです。
 日本美術や陶芸など、歴史が長い分野では、美術館や研究者や美術商が価値判断を下すシステムが、ある程度は機能するようです。ところが現代アートではそうではありません。日本の美術館は、すでに評価が定まっている作品しか購入しないようです。今や日本の著名なアーティストであるにもかかわらず、奈良美智、村上隆の重要な作品の多くが海外にあって、国内の美術館には収蔵されていないのです。(190-191ページ)


と述べて、長い目でアートを残していくことの重要性にふれ、本をしめくくっています。
 この著者が、単に売れ線を考えて、派手に村上や奈良を売り出しているわけでは、けっしてないことが、この部分からもわかりました。

 まあ、美術館の側にもいろいろ言い分はあるでしょう。
 とくに公立美術館の作品購入の元手は、税金です。どこの馬の骨ともわからない者の作品に、たくさんの税金をつぎ込むわけにはいかないでしょう。
 だとすれば、ここは、好きなようにじぶんのお金を使えるコレクターの出番なのですが、日本の金持ちは、美術品に一家言あって収集している人はそれほど多くなく、いわば「ブランド信仰」の発展系としてコレクションしている人が多いのでしょうか。お金持ちに知り合いがいないので、よくわかりませんが。


この項続く


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