(承前)
都合により、(3)~(5)よりこの記事を先にアップします。
「手芸作品展」で、机の上に並んでいるのはコサージュやピアスのようなアクセサリー類ですから、ふだんであれば見に行っていないと思います。
しかし、よく見ると、ちょっとグロテスクな形状の作品が並んでいます。
しかもそれは、単にホラー効果や奇怪さを狙った、趣味的なものではないようです。
もちろん、シンプルに美しいものもあり、この画像では、窓べりに置かれた「赤い花」「青い葉」などは、ビーズを使っているので、外光をきらきら反射しています。
作者と話をしていて思い出したのですが、画家のモリケンイチさんが Facebook で、この展示について、またもや的確な評言を寄せていました。
ほんとに、モリさんにはかなわないなあと思いつつも、ちょっとだけ引用させていただくと
「コクトーやヤン・シュヴァンクマイエルなど東欧の人形作品やシュルレアリスムとの親和性が高いように思われます。」
と記しておられます。
普通のかわいかったりきれいだったりする手芸とは、一線を画しているのは間違いありません。
写真を何枚か撮ってきましたが、布のほか、針金を素材にしているものが多く、とても実物の魅力を伝えきれてはいません。
会期末になってしまいましたが、お時間のある方はギャラリー犬養に足を運んでみていただければと思います。
もうひとつ書いておきたかったことがあります。
この画像は、飛ぶチョウを題材にしています。
身に着けるアクセサリーというよりは、インテリアとして部屋に飾ることを想定しているようです。
メモをとっていたわけではないので正確なやりとりではないのですが、作者は、きれいに展翅されたチョウの標本が、むりやり羽を広げて並べられたものであることを知って、同じようなスタイルのチョウの作品を手がけなくなったのだそうです。
そして、自由に生きてきた女性にとって、結婚生活で家庭に縛られるということは、チョウの標本のように不自然に羽を広げて固定されるのに似ているのではないだろうか―と感じたというのです。
それを聞いて、筆者は少なからずショックを受けました。
標本というものが、動物園と同じように、自然に接近する態度が人間中心主義というか西洋文明的な感じのする行為=展示であることは、なんとなく了解していました。
しかし、そのまなざしのあり方は、近代の男性支配と通底していると考えることもできるわけです。
本来の、自然な<生>を奪っているという構造においては、とても似ているのです。
自分も男性既婚者ですから、なんだか、バキューンと撃たれたような思いであり、どうもうまくことばにまとめることがかないません。
ともあれ、こういう射程あるいは方向性をもって制作に取り組んでいる人は、道内ではごくわずかだと思います。
今回のメインビジュアルとなった「したたかな鳥」。
画像で見るとわかるように、鳥かごのとびらはあいています。
にもかかわらず、鳥は中に入ったままで、飛び立ちません。
かごに取り付けられたリボンには、近代哲学の出発点となったデカルトのコギト(われ思う、ゆえにわれあり)をもじったフランス語のことばが書かれています。
鳥はどこかに出かけていて戻ってくる「家」がある―と解釈すれば平和な気持ちになれますし、とびらがあいていてもそこから逃げ出して自由になる勇気を失うほど「支配」を内面化しているのだ―とみれば、きわめて現代的な状況を表象しているともいえる、多義的で、考えさせられる作品なのです。
いま気づいたのですが、壁に映ったリボンの影は、羽ばたく鳥のようにも見えますね。
ガラスケース内にも、クモやアンモナイトをかたどった作品がならんでいます。
天井からつるされている作品には、クモの巣のようなものもあります。
大きな目から涙が流れているデザインのものや、アジサイの花もありました。
題材的には、じょびんさんの作品と重なる部分もすこしあるのですが、受ける印象は見事なまでにぜんぜん異なります。
「水の滴る」。
壁に取り付けられたちいさい花です。
こういう作品はむしろ、グロテスクやシュルレアリスムというよりも、ロマンチシズムに通じる感情がこめられているようにも思えます。
Furukawa さんは学生時代に生物学を学んでいたそう。
個展は、3、4年前に続いて2度目とのことです。
何の気なしに入ったギャラリー犬養ですが、来て良かったです。
2017年4月19日(水)~5月1日(月)午後1時~10時30分、火曜休み
ギャラリー犬養(札幌市豊平区豊平3の1)
・地下鉄東西線「菊水駅」から約560メートル、徒歩8分
・中央バス「豊平橋」から約200メートル、徒歩3分
・地下鉄東豊線「学園前駅」から約1.03キロ、徒歩13分
都合により、(3)~(5)よりこの記事を先にアップします。
「手芸作品展」で、机の上に並んでいるのはコサージュやピアスのようなアクセサリー類ですから、ふだんであれば見に行っていないと思います。
しかし、よく見ると、ちょっとグロテスクな形状の作品が並んでいます。
しかもそれは、単にホラー効果や奇怪さを狙った、趣味的なものではないようです。
もちろん、シンプルに美しいものもあり、この画像では、窓べりに置かれた「赤い花」「青い葉」などは、ビーズを使っているので、外光をきらきら反射しています。
作者と話をしていて思い出したのですが、画家のモリケンイチさんが Facebook で、この展示について、またもや的確な評言を寄せていました。
ほんとに、モリさんにはかなわないなあと思いつつも、ちょっとだけ引用させていただくと
「コクトーやヤン・シュヴァンクマイエルなど東欧の人形作品やシュルレアリスムとの親和性が高いように思われます。」
と記しておられます。
普通のかわいかったりきれいだったりする手芸とは、一線を画しているのは間違いありません。
写真を何枚か撮ってきましたが、布のほか、針金を素材にしているものが多く、とても実物の魅力を伝えきれてはいません。
会期末になってしまいましたが、お時間のある方はギャラリー犬養に足を運んでみていただければと思います。
もうひとつ書いておきたかったことがあります。
この画像は、飛ぶチョウを題材にしています。
身に着けるアクセサリーというよりは、インテリアとして部屋に飾ることを想定しているようです。
メモをとっていたわけではないので正確なやりとりではないのですが、作者は、きれいに展翅されたチョウの標本が、むりやり羽を広げて並べられたものであることを知って、同じようなスタイルのチョウの作品を手がけなくなったのだそうです。
そして、自由に生きてきた女性にとって、結婚生活で家庭に縛られるということは、チョウの標本のように不自然に羽を広げて固定されるのに似ているのではないだろうか―と感じたというのです。
それを聞いて、筆者は少なからずショックを受けました。
標本というものが、動物園と同じように、自然に接近する態度が人間中心主義というか西洋文明的な感じのする行為=展示であることは、なんとなく了解していました。
しかし、そのまなざしのあり方は、近代の男性支配と通底していると考えることもできるわけです。
本来の、自然な<生>を奪っているという構造においては、とても似ているのです。
自分も男性既婚者ですから、なんだか、バキューンと撃たれたような思いであり、どうもうまくことばにまとめることがかないません。
ともあれ、こういう射程あるいは方向性をもって制作に取り組んでいる人は、道内ではごくわずかだと思います。
今回のメインビジュアルとなった「したたかな鳥」。
画像で見るとわかるように、鳥かごのとびらはあいています。
にもかかわらず、鳥は中に入ったままで、飛び立ちません。
かごに取り付けられたリボンには、近代哲学の出発点となったデカルトのコギト(われ思う、ゆえにわれあり)をもじったフランス語のことばが書かれています。
鳥はどこかに出かけていて戻ってくる「家」がある―と解釈すれば平和な気持ちになれますし、とびらがあいていてもそこから逃げ出して自由になる勇気を失うほど「支配」を内面化しているのだ―とみれば、きわめて現代的な状況を表象しているともいえる、多義的で、考えさせられる作品なのです。
いま気づいたのですが、壁に映ったリボンの影は、羽ばたく鳥のようにも見えますね。
ガラスケース内にも、クモやアンモナイトをかたどった作品がならんでいます。
天井からつるされている作品には、クモの巣のようなものもあります。
大きな目から涙が流れているデザインのものや、アジサイの花もありました。
題材的には、じょびんさんの作品と重なる部分もすこしあるのですが、受ける印象は見事なまでにぜんぜん異なります。
「水の滴る」。
壁に取り付けられたちいさい花です。
こういう作品はむしろ、グロテスクやシュルレアリスムというよりも、ロマンチシズムに通じる感情がこめられているようにも思えます。
Furukawa さんは学生時代に生物学を学んでいたそう。
個展は、3、4年前に続いて2度目とのことです。
何の気なしに入ったギャラリー犬養ですが、来て良かったです。
2017年4月19日(水)~5月1日(月)午後1時~10時30分、火曜休み
ギャラリー犬養(札幌市豊平区豊平3の1)
・地下鉄東西線「菊水駅」から約560メートル、徒歩8分
・中央バス「豊平橋」から約200メートル、徒歩3分
・地下鉄東豊線「学園前駅」から約1.03キロ、徒歩13分
(この項続く)