(承前。■詩人と美術 瀧口修造のシュルレアリスム (2013年5月18日~6月30日、小樽)の続き。長文です)
もとより超現実主義と感傷とは相容れないものであろう。秩序の顛覆と霍乱を図る超現実主義にとって、感傷性はあまりにブルジョア的だからだ。
それにしても、このブログ記事と同じ題で、巖谷國士氏が「詩人と美術 瀧口修造のシュルレアリスム」展の図録巻頭に寄せた一文を読み、そしてこの図録全体を読み直してみると、個人的には、瀧口修造やシュルレアリスム全体を客観的に論じることなどはもうどうでもよくなってきて、いろいろな思いがどっと押し寄せてくるのだった。
巖谷氏は一昨年も札幌芸術の森美術館のすばらしい展覧会「森と芸術」のために北海道を訪れ講演しておられた。
瀧口展の図録には、次のようにある。
巖谷さん、若い頃、小樽に来ていたのか…。
*
瀧口修造が青年時代、シュルレアリスムに傾倒する前は、ウィリアム・ブレイクに惹かれていたようだ。
ちなみに、関東大震災の折、彼が持って逃げたよみさしの本は、ウィリアム・モリスの“News from Nowhere”(邦題「ユートピアだより」)であったという。
ブレイクもモリスも、おそらく「白樺」経由だったのだろうと巌谷さんはみている。
瀧口修造と、人道主義の白樺派とは、意外な結びつきな感もあるが、明治末から大正にかけて青春を過ごした世代にとって「白樺」からの影響はむしろ当然だったようだ。
社会に対する不満、あるいは変革への志向を抱く者が、どうしてマルクス主義(小樽といえば小林多喜二!)に走らず、ブレイクだったのかとも考えたが、日本でマルクス主義が猛威を振るったのは、関東大震災から1930年代初頭にいたるほんの数年間に過ぎず、その後は官憲に大弾圧を食らったのだから、瀧口は世代的に合わないのであった。
瀧口のブレイクへの傾倒はけっして生半可なものではない。「山中の分教場のようなところで代用教員をして子供を相手に一生を送る決心」というのは、文学を捨てた決意の強さを物語って痛々しさを漂わせるが、それも、ブレイクの「無垢」への憧れがあったのではないか。
瀧口青年は小樽でペスタロッチ(教育学の聖書ともいわれる「隠者の夕暮」の著者)も読んでいたというから、教育への志向は本物だったのだろう。(なんだか、ふと、ウィトゲンシュタインを思い出してしまった。20世紀最大の哲学者のひとりは、第1次大戦に従軍した後、小学校の教師をしていたのであった)
いま北見に住んでいる筆者は、このくだりで驚いたが、当時は北見市は、市制施行前で、野付牛町と呼ばれていた。ここでいう北見とは、網走などを含む、いまのオホーツク地方全体を指す言葉であった可能性が高い。
*
続いて、巖谷さんは、瀧口修造の初期のテキスト「冬」を手がかりに、小樽時代の暮らしや心理を読み解いていく。
ここまできて筆者はたまらず、「可能な限り、リアル書店を応援するため、ネット通販は利用しない」という自らの方針を覆し、amazon で「瀧口修造コレクション 11」(みすず書房)を註文してしまった(古書で2210円だった)。
「冬」の全文は図録にも引用されているが、やはり縦書きで読みたかったし、この「11」には、当時の「地球創造説」「超現実主義の動向」といった重要なテキストが軒並み収録されているのである。
この「冬」は、本で4ページほどの短い、散文詩のような文章である。
締めくくりは、こうだ。
*
また、この自筆年譜には書かれていないのだが、巖谷さんによると、瀧口修造は小樽を離れて慶大に再入学した2年度の1927年、また小樽を訪れて、蘭島海岸で、ブルトンのシュルレアリスム宣言や、ブルトンとスーポー合作の「磁場」などに取り組んでいたという。小樽の夏でフランス語をものにしたのだ。すごいな。
ちなみに、巖谷さんはふれていないが、小樽市街と蘭島の中間にある集落が塩谷で、多喜二とならぶ小樽ゆかりの文学者である伊藤整の故郷である。
いささか「ひいきの引き倒し」的な言い方をすれば、瀧口修造がシュルレアリストとして自らを成り立たしめた場所が、まさに小樽だったとはいえないだろうか。
1939年4月。
瀧口が慕っていた姉が小樽で病気のため歿する。
これ以降、瀧口修造が小樽を訪ねた記録はない。
「第二の故郷」は、記憶の中の存在になったのだろう。
*
さて、巖谷さんの文章は、三岸好太郎へと続く。
三岸の異母兄は厚田の出身だから、彼が海に行くときは、小樽の方角ではなく、石狩の方角をさしたのではないかと思われ、蘭島には行っていないような気がする。それはさておき、なんと瀧口修造とおなじ1903年12月生まれで、命日の7月1日というのもふたりはおなじというから驚きである。
三岸は、独立展に、貝殻をテーマにした絵(遺作)を出品していた。
それは、おそらく福沢一郎経由でシュルレアリスムから影響されたのだろうと思われるが、その展覧会について瀧口が批評を書き、三岸にもふれているのである。
こんなところでも、瀧口が北海道とつながっているとは!
貝殻は、瀧口の詩に頻発する語であり、イメージであることを、巖谷さんが指摘しておられる。
そういえば、三岸にもふしぎな散文詩の創作がある。
どこかで、瀧口の詩を目にしていた可能性はありそうだ。
*
この巖谷さんのテキストは、次のような回想で締めくくられる。
北見へ帰る長距離バスの車内で、このくだりを読んで、不覚にも涙がこぼれた。
理由は分からない。
ただ、小樽というマチ自体がもっている巨大ななつかしさと、姉の死と軍国主義と空襲の暗い谷間の時代を過ごした瀧口の思いとが、ないまぜになって自分に押し寄せてきたかのようだった。
もとより超現実主義と感傷とは相容れないものであろう。秩序の顛覆と霍乱を図る超現実主義にとって、感傷性はあまりにブルジョア的だからだ。
それにしても、このブログ記事と同じ題で、巖谷國士氏が「詩人と美術 瀧口修造のシュルレアリスム」展の図録巻頭に寄せた一文を読み、そしてこの図録全体を読み直してみると、個人的には、瀧口修造やシュルレアリスム全体を客観的に論じることなどはもうどうでもよくなってきて、いろいろな思いがどっと押し寄せてくるのだった。
巖谷氏は一昨年も札幌芸術の森美術館のすばらしい展覧会「森と芸術」のために北海道を訪れ講演しておられた。
瀧口展の図録には、次のようにある。
私はそのころ(1969年、瀧口が「自筆年譜」を書いていた時分:引用者註)に聞いた話の細部をおぼえているわけではない。ただ、故郷の富山の生家から望まれる雪の平原と、とくに青春期の2年間をすごした小樽の白く凍った坂道の話だけは、はっきり記憶にのこっている。
その後に私が幾度も小樽をおとずれるようになったのはそのためでもある。冬の小樽の坂道をさまよい、夏には蘭島海岸を経て余市へ出たり、戦前からの喫茶店「光」で時をすごしてから根室行の鈍行夜行列車に乗ったりした1970年代の私の北海道旅行は、瀧口さんとの話がきっかけだったのではないかと思う。
巖谷さん、若い頃、小樽に来ていたのか…。
瀧口修造が青年時代、シュルレアリスムに傾倒する前は、ウィリアム・ブレイクに惹かれていたようだ。
ちなみに、関東大震災の折、彼が持って逃げたよみさしの本は、ウィリアム・モリスの“News from Nowhere”(邦題「ユートピアだより」)であったという。
ブレイクもモリスも、おそらく「白樺」経由だったのだろうと巌谷さんはみている。
瀧口修造と、人道主義の白樺派とは、意外な結びつきな感もあるが、明治末から大正にかけて青春を過ごした世代にとって「白樺」からの影響はむしろ当然だったようだ。
社会に対する不満、あるいは変革への志向を抱く者が、どうしてマルクス主義(小樽といえば小林多喜二!)に走らず、ブレイクだったのかとも考えたが、日本でマルクス主義が猛威を振るったのは、関東大震災から1930年代初頭にいたるほんの数年間に過ぎず、その後は官憲に大弾圧を食らったのだから、瀧口は世代的に合わないのであった。
瀧口のブレイクへの傾倒はけっして生半可なものではない。「山中の分教場のようなところで代用教員をして子供を相手に一生を送る決心」というのは、文学を捨てた決意の強さを物語って痛々しさを漂わせるが、それも、ブレイクの「無垢」への憧れがあったのではないか。
瀧口青年は小樽でペスタロッチ(教育学の聖書ともいわれる「隠者の夕暮」の著者)も読んでいたというから、教育への志向は本物だったのだろう。(なんだか、ふと、ウィトゲンシュタインを思い出してしまった。20世紀最大の哲学者のひとりは、第1次大戦に従軍した後、小学校の教師をしていたのであった)
瀧口修造はこの北海道行について、ほかのところでは「彷徨」「放浪」ともいっている。おそらく小樽を拠点に幾度か旅をしたのではなかろうか。「自筆年譜」の2年後の項に、「当時ようやく北見の一農場に格好な仕事を見つけたが、結局、姉らの説得に従い、不本意ながらも四月上京、慶応大学に再入学する」とあるのは、そうした職さがしの旅がつづいていたことを暗示するようにも思える。
いま北見に住んでいる筆者は、このくだりで驚いたが、当時は北見市は、市制施行前で、野付牛町と呼ばれていた。ここでいう北見とは、網走などを含む、いまのオホーツク地方全体を指す言葉であった可能性が高い。
続いて、巖谷さんは、瀧口修造の初期のテキスト「冬」を手がかりに、小樽時代の暮らしや心理を読み解いていく。
ここまできて筆者はたまらず、「可能な限り、リアル書店を応援するため、ネット通販は利用しない」という自らの方針を覆し、amazon で「瀧口修造コレクション 11」(みすず書房)を註文してしまった(古書で2210円だった)。
「冬」の全文は図録にも引用されているが、やはり縦書きで読みたかったし、この「11」には、当時の「地球創造説」「超現実主義の動向」といった重要なテキストが軒並み収録されているのである。
この「冬」は、本で4ページほどの短い、散文詩のような文章である。
締めくくりは、こうだ。
寒さが増して、日が落ちた。北の方で、ミケランジエロの絵のやうな大きな腕の雲が一本、ほの暗く延びてゐた。夕焼けを本統に見物した喜びに満ちて室に帰つた。彼は子供のやうにころころになつてゐた。
また、この自筆年譜には書かれていないのだが、巖谷さんによると、瀧口修造は小樽を離れて慶大に再入学した2年度の1927年、また小樽を訪れて、蘭島海岸で、ブルトンのシュルレアリスム宣言や、ブルトンとスーポー合作の「磁場」などに取り組んでいたという。小樽の夏でフランス語をものにしたのだ。すごいな。
ちなみに、巖谷さんはふれていないが、小樽市街と蘭島の中間にある集落が塩谷で、多喜二とならぶ小樽ゆかりの文学者である伊藤整の故郷である。
いささか「ひいきの引き倒し」的な言い方をすれば、瀧口修造がシュルレアリストとして自らを成り立たしめた場所が、まさに小樽だったとはいえないだろうか。
1939年4月。
瀧口が慕っていた姉が小樽で病気のため歿する。
これ以降、瀧口修造が小樽を訪ねた記録はない。
「第二の故郷」は、記憶の中の存在になったのだろう。
さて、巖谷さんの文章は、三岸好太郎へと続く。
三岸の異母兄は厚田の出身だから、彼が海に行くときは、小樽の方角ではなく、石狩の方角をさしたのではないかと思われ、蘭島には行っていないような気がする。それはさておき、なんと瀧口修造とおなじ1903年12月生まれで、命日の7月1日というのもふたりはおなじというから驚きである。
三岸は、独立展に、貝殻をテーマにした絵(遺作)を出品していた。
それは、おそらく福沢一郎経由でシュルレアリスムから影響されたのだろうと思われるが、その展覧会について瀧口が批評を書き、三岸にもふれているのである。
こんなところでも、瀧口が北海道とつながっているとは!
貝殻は、瀧口の詩に頻発する語であり、イメージであることを、巖谷さんが指摘しておられる。
そういえば、三岸にもふしぎな散文詩の創作がある。
どこかで、瀧口の詩を目にしていた可能性はありそうだ。
この巖谷さんのテキストは、次のような回想で締めくくられる。
第二次大戦中に亡命先のニューヨークで発表された『シュルレアリスム第三宣言、か否かへの序論』の冒頭に、アンドレ・ブルトンはこんなことを書いていた。
「おそらく私のなかには北がありすぎるので、全面的同意をするような人間にはけっしてならないだろう。」
いつのことだったか、私は瀧口さんの書斎で、この言葉に共鳴するかどうか尋ねてみたことがある。富山という雪国で生まれ育ち、小樽という雪国を第二の故郷とした日本のシュルレアリストから、なにかひとこと聞きだしたかったのだと思う。
滝口さんははにかむように笑ってなにも答えなかった。どこか遠くを眺めているような目だった。
北見へ帰る長距離バスの車内で、このくだりを読んで、不覚にも涙がこぼれた。
理由は分からない。
ただ、小樽というマチ自体がもっている巨大ななつかしさと、姉の死と軍国主義と空襲の暗い谷間の時代を過ごした瀧口の思いとが、ないまぜになって自分に押し寄せてきたかのようだった。
(以下別項)
2011年に芸術の森美術館で開催した「森と芸術」展を観て、巌谷國士氏の本を読みたいと思っていました。
ここで小樽と瀧口修造のお話があり、巌谷氏も小樽に関係があったとは、もっと、身近な関心ごとになりました。とても良い記事をありがとうございます。
上の文章、いまあらためて読み返すと、わかりづらいところがありますね。
ウィトゲンシュタインのくだりなど、唐突ですし…。
どうもすみません。