![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/4c/9117151feac4da99e9f4bc08b1779861.jpg)
札幌出身、パリ在住の西窪愛子さんの写真展。札幌では、2012年のシンビオーシス以来、2年ぶりの個展となるそうだ。筆者が見たのは、2009年のカフェエスキス以来5年ぶりとなる。
「絵のような写真」という彼女のテーマが結実した、19世紀の写真のような美しい作品だった。
(副題の「Melancolie」の最初のeは、正しくはアクサンテギュつきの「é」。
この写真展には「キャンバス地写真とアクリル板写真の世界」という副題がついている。
会場の中央に、透明なアクリル板にプリントした写真を三つ吊り下げている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/21/8d547a2feaa8fc725b7dcad8d09eacf6.jpg)
透明なので、ギャラリー創の大きなガラスごしに、屋外の風景が透けて見えるのがおもしろい。
おなじ位置に立って、ギャラリーの内側を見る。
「人生の時間の流れをイメージした。自分の記憶の映像、幼少の自分を思い出してくださってもいいし、いろんな見方ができると思うんです」
そういう西窪さんのことばを聞くと、なぜか、プルーストやマルタン=デュ=ガールといった20世紀前半のフランスの小説を思い出してしまう。
写っているのは、パリの風景なのだが、空を飛ぶ鳥だったり、セーヌの川岸だったり、見る人が容易に感情を投影できるような、シンプルな風景だ。
西窪さんがベルギーに赴いたとき、保存状態の良いガラス乾板の写真を見たのが、アクリル板を使うきっかけだったそうだ。印画紙にプリントするのが当たり前になるよりも前の、ガラス乾板という写真のありように、今よりも豊かな発想を見たというのだ。
ちなみに、アクリル板にエマルジョンを塗っても、板が伸縮してイメージが剥離することがあり、いろいろな工夫をしているとのこと。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/53/5f03bb9e460833b60c09771a3a900cab.jpg)
こちらは、普通に油絵などで用いるキャンバスにプリントした作品。
塗った時の刷毛の模様なども、写真のイメージとともに、画面に定着している。まさに、絵のような写真である。
西窪さんはキャンバスをロールで買ってくるそうだが、やはりエマルジョンを塗るだけではダメで、キャンバスをお湯で洗うなど、画面の定着には苦心しているとのこと。
ちなみに、作品はすべて正方形だ。
使っているカメラは、ローライフレックスとニコンFE。ローライで正方形になるのは当たり前として、ニコンFEは、シャッターのところに、画面の左右が切れるように改造しているとのこと。
人間の画角は円形であり、それに近いのが正方形というのが、西窪さんの説だ。筆者は横長の長方形だと思うのだが、こればっかりは、感覚的なものなので、正解というのはないんだろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/3a/cd4f1e0d0da430b8f42131f147fd19fc.jpg)
一部、印画紙にプリントしたものもある。
ただし、この印画紙は製造中止になってしまったとのことで、「今後は自分で薬品を調合して作らなくてはならないかも」と西窪さんは話していた。
「銀塩写真がなくなってしまわないよう、こういう展示をすることで、支えていきたいです」
と西窪さん。
以下は、筆者による蛇足である。
「絵のような写真」というフレーズをきいて、まず思い出したのは「ピクトリアリズム」と呼ばれる19世紀後半の写真史の潮流だった。この時代の、とりわけ肖像写真は、絵画のように撮影することが流行していた。額縁を思わせるような装飾を施したり、ソフトに仕上げることが多かったようである。
写真でなければできない表現を目指したのが、20世紀初頭のスティーグリッツやアジェなどで、現代の写真の歴史はこのあたりから始まるとされる。と同時に、この時期の写真は、ベンヤミンに「アウラの捏造」と批判され、すっかり過去のものとされてしまった。
しかし、西窪さんの写真は、単なるピクトリアリズムへの回帰でも反動でもない。
最大の違いは、19世紀後半の「絵画的な写真」の大半が肖像写真であったのに対し、西窪さんの作品はみな風景写真であることだ。
風景にレンズを向けると、現代の性能の良いカメラは、それこそなんでもかんでも写し取ってしまう。したがって、「ある特定の日時と場所」が写ってしまい、鑑賞する側の気分を投影できる普遍性が獲得しづらい。
そこで、あえて19世紀的な古い技法を採用することで、「なんでも撮れてしまう性質」をそぎ落として「少ないものごとしか写っていない」写真を目指したのが、西窪さんの写真なのではないだろうか。
もちろん、デジタル写真にフォトショップをかまして、これもあれもと、画面に入り込んだ余計なものを人為的に外していってもおもしろくもなんともないわけで、あえて銀塩フィルムを使うところが、ミソなのである。
彼女の写真は、擬古典的であることによって、時空の制約をはずれ、ある種の普遍性を獲得しているのだ。まごうことなきパリの街角でありながら、しかし同時に自分の過去の一断片でもあるかのような懐かしさをたたえているのは、それゆえなのだ。
それにしても、2002年にはじめて見たときは、いわゆる「よく撮れたスナップ」であって、将来ここまで方法論を磨き上げるようになるとは、想像もできなかった。この、向上心というか粘り強さには、ほんとうに敬意を表したい。
2014年4月2日(水)~14日(月)午前11時~午後6時(最終日~午後5時)
ギャラリー創(札幌市中央区南9西6)
【告知】西窪愛子写真展 存在の証 -10年後の自分へ- (2011)
■西窪愛子写真展 Velos・5-パリに住む自転車達- (2009年)
■西窪愛子写真展(2007年)
■西窪愛子写真展「PARIS-桜の頃」(02年、画像なし)
・市電「山鼻9条」から約110メートル、徒歩2分
・地下鉄南北線「中島公園」から約350メートル、徒歩5分
・ジェイアール北海道バス山鼻環状線「南9条西7丁目」から約180メートル、徒歩3分
・中央バス西岡平岸線「中島公園入口」から約670メートル、徒歩7分
・トオンカフェから約500メートル、徒歩7分ぐらいです
今日(13日)、西窪愛子写真展を観てきました。特に、吊り下げてあった窓側と中央の写真に惹かれます。ガラス板に墨絵のような、飛ぶ鳥はどこかで見たような懐かしさと東洋的な精神性を感じて心に残りました。(アクリル板とは思えない)
写真という技法や工夫、写真家さんの思いが絵のような表現になる、ブログを読ませていただき、奥が深い個展とわかりました。ありがとうございます。
怜なさんが、アクリル板でなくガラス板と感じたとすれば、西窪さんとしては「してやったり」という思いではないでしょうか。
「東洋的」という指摘には、ハッとさせられました。
確かに水墨画のような雰囲気もありますよね。
隅々まで描き尽くそうとする西洋画と、あえて空白を残して余韻によって何かを語らせる東洋の絵画との違いが、西窪さんの写真にあらわれているといってもよいかもしれません。
技法の説明はかなりはしょりましたが、普通は使わない支持体にプリントしているので、いろいろ苦心なさっているようでした。