自分は昔から、朝起きてすぐにテレビをつける習慣があった。
朝食を食べるときも見ていたし、テレビがついていないと何か欠けているような気がしてならなかった。
ちゃんとした家庭だと、食事の時はテレビを消して家族の会話を楽しむという教育をするのだろうが、うちの場合はテレビがないとその場がもたなかった。
それが全寮制の学校に入学して事態が一変した。
当時の寮生活はもちろん縦割り。
15歳から18歳までの低学年寮は基本4人部屋、18歳から20歳の高学年は2人、もしくは一人部屋であった。
1年生は奴隷のように働き、2年生は普通に暮らし、3年生は神様のような待遇であったと記憶する。
そんな昭和の時代を象徴するような環境では、テレビなど見る余裕など全くなかった。
テレビはロビーといういわば大広間のようなところに一台あるだけで、当然ながらチャンネル権は3年生しか持てない。
各部屋にテレビなど当然ないので、テレビが見たければ先輩方が座る一番後ろのほうで立って観るしかなかったので、だんだんテレビから遠ざかっていく。
早い話がテレビなんて観てる場合じゃなかった、ってことですかね。
それまで当たり前に観ていたときは気がつかなかったことを知る。
「こんな下らない内容の番組を毎日観ていたのか」と気づかされる。
当たり前に観ていたときには全く気がついていなかったのにである。
テレビを観ないと暇なので本を読んだり、勉強にも力が入るということも知った。
テレビのない生活はとても豊かなのだ。
だがそれもすぐに堕落する。
家に帰れば誰も観てなくてもテレビはつけっぱなし。
朝は時計代わりに画面は観ずに、うつらうつらの二度寝頭で聞いていたりする。
目的があって観るのはいいけれど、惰性のダラダラはよくないと改めてわかったのだ。
こんなお気楽のわたくしでも、これから先どのように生きていくかは真面目に考えなければならない。
若いころは「好き勝手に暮らしていって、その結果がどうなろうとどうでもいい」
とたかをくくっていたのに、さすがに今となってはそうはいかない。
それなりの人生設計も必要である。
若いころは「光陰矢の如し」という言葉を聞いても、何の感慨もなかったが今はこの言葉が骨身にしみる。
「まだ」のような気もするが、「もう」のような気もする。
まだ中途半端な年齢なのだろうけど、あせることもなく心穏やかに暮らしていければ一番いいと思っているのである。