歴史、と言う言葉に接するとついある評論家の次の言葉を思いだす。
歴史を鏡と呼ぶ発想は鏡の発明とともに古いように想像される。歴史の鏡に映る見ず知らずの幾多の人間達に己の姿を観ずることが出来なければどうして歴史が私たちに親しかろう。事実、映るのは詰まるところ自分の姿に他ならず、歴史を客観的に見るというようなこと実際には誰の経験のうちにも存在しない空言である。嫌った人も憎んだ人も、殺した人でさえ、思い出のうちに浮き上がれば、どんな摂理によるのか、思い出の主と手を結ばざるを得ない。これは私たちが日常行っているいかにも真実な経験である。だから人間は歴史をもつ。社会だけなら蟻でも持つ。
現代のわれわれは蟻なのか。