ヴィクトル・ユーゴ―の小説、「レ・ミゼラブル」には心を打つ名場面がいくつもあるが、この長編小説の底に流れているヒューマニズムを具現しているのは、冒頭から登場する無私の精神の権化ともいうべきディーニュの司教ミリエル氏だろう。そのことの象徴が、ジャン・バルジャンが銀の食器を盗んで憲兵に逮捕され前夜泊まった司教館に引き連れられてきたときに、司教が間髪を入れず「どうして一対の銀の燭台も持って行かなかったのですか?」と言ってジャン・バルジャンに燭台を渡し、銀の食器を彼に与えたのだということにして彼の無罪を証明するというくだりだ。銀の燭台を渡しながらミリエル司教はジャン・バルジャンに小声で「N'oubliez pas, n'oubliez jamais que vous m'avez promis d'employer cet argent à devenir honnête homme. 忘れてはいけません、この銀の器は正直な人間になるために使うのだとあなたが私に約束したことは」と諭す。そして彼はその後この戒めを忘れないために終生燭台を肌身離さず持って歩くことになる。
子供の頃にこの場面を読んだ時には、本当にとっさにこんなことを言える人がいるのだろうかと思った。すべてを見透かしているような人でなければ、一瞬にしろ隙が生まれるのではないかと。しかし、何度かこのくだりを読み返してみると、ミリエル司教にとってはそもそも銀の食器や燭台は貧しい人のものであり、自分のものではないというはっきりした自覚を持っていたことが判って合点がいくようになった。
今から40年ほど前イギリスに赴任して間もなく、誰か食事に招待したときにはその食卓に燭台は欠かせない、といわれて一対の銀メッキの燭台を買った。それほど頻繁ではないが、今でも自宅に夕食に招待したときには必ずこの燭台を灯すことにしている。レ・ミゼラブルで司教がジャン・バルジャンのために食事を供したときにも銀の燭台を灯したことを真似ているわけではないが、燭台に灯がともると少しは改まった気分になるから。
ある時、姉の孫の男の子(自分から見れば姪孫、大甥)がまだ小さいころ自宅に来て客間の食卓においてあるこの燭台を見て心配そうに、「泥棒が来たら持っていってしまうのでは?」と真顔で聞いてきたことがある。その時にはこのレ・ミゼラブルの一節が頭に浮かんだが、そのことを話すにはこの少年は若すぎると思った。それにそもそも、自分にこの司教のように無私の精神を持ち合わせているかと聞かれれば答えはNoだろうし。
時間が経って文字通りメッキが剥げてきたところもある。大甥も高校生になってもう子供っぽい心配もしなくなっただろう。一方、煩悩の塊のような自分もいつかはこの燭台と別れる時が来るはずだ。そのころにはひょっとして骨董品にでもなっているかもしれない。
ジャン・バルジャンに一対の銀の燭台を渡すミリエル司教。入り口にはジャン・バルジャンを連行してきた憲兵たち。