ある日、何気なく検索キーワードに自分の名前をうってみた。まあ何も出てこないだろうとの思い込みが、その瞬間一挙に崩れた(?)。ちゃんとフルネームが記述されていた。ユーチューブに娘のバイオリン演奏の動画をアップしていたのが、順繰りにしょうかいされていた。上から目を通していくと、全国公募の入選に、PHPの入選作がちゃんと紹介されていた。それに全国紙の投稿文まで。検索で自分がしょうかいされるって、実にいい気分である。ちなみに家族も順番にキーワードにして検索。末娘だけがヒットした。音楽科で学んでいた彼女の学校のコンサートの紹介の中に、あったあった!娘の名前が。結局、個人名で紹介されたのはわたしだけ。それだけ少しは認知されてるのか?とぼんやりと考えてしまった。あと少しの人生、もうちょっと頑張ってみようっと、そんなことも思った検索遊びだった。
還暦を迎えてから、外出や散歩のおりに意識して携帯するようになったものがある。ペットボトルに詰めたお茶である。喉がかわいたと思ったら躊躇なく飲むように努めている。
暑い夏になると、お茶を詰めたペットボトルは必須アイテムになる。それも前夜に冷凍庫に入れて凍らせた物である。それにタオルを巻いて専用のバッグに入れる。これは便利である。汗をかくほど暑い日は、時々冷えたタオルを額や首筋にあてるだけで、ひんやりと気持ちいい
凍ったお茶は徐々に溶けて、喉が渇いたときひと口飲むと、ちょうど程好く冷えていておいしい。それに飲んだ端に暑さを一時忘れる清涼感はもうこたえられない。
暑さに応じて専用バッグは保冷用を利用したりと対処するが、ペットボトルの凍ったお茶と冷えるタオルは、絶対に手放せない。
そろそろ酷暑が近づいている。丈夫なペットボトルを洗って何本か予備を用意している。
暑い夏になると、お茶を詰めたペットボトルは必須アイテムになる。それも前夜に冷凍庫に入れて凍らせた物である。それにタオルを巻いて専用のバッグに入れる。これは便利である。汗をかくほど暑い日は、時々冷えたタオルを額や首筋にあてるだけで、ひんやりと気持ちいい
凍ったお茶は徐々に溶けて、喉が渇いたときひと口飲むと、ちょうど程好く冷えていておいしい。それに飲んだ端に暑さを一時忘れる清涼感はもうこたえられない。
暑さに応じて専用バッグは保冷用を利用したりと対処するが、ペットボトルの凍ったお茶と冷えるタオルは、絶対に手放せない。
そろそろ酷暑が近づいている。丈夫なペットボトルを洗って何本か予備を用意している。
市民に出来る支援のエール
再び朝日新聞が襲撃された。この無言の暴力は恐怖時代を予感させるものだ。断じて見過ごしてはならない。日本の将来のためにも。
言論側が、このような暴力による抑圧行為の前に屈することはないだろうが、故人は元来弱者である。故にこそ、記者諸氏の使命の重さを考え、さらなる奮起を願うばかりである。
法治社会に暴力は相容れられないものとの認識を強く持っていたわたしだが、昨今の風潮を見るに、本当にそうなのかと疑いたくなる。暴力団抗争に始まり、地上げ屋、誘拐殺人等、毎日報道される記事の大部分は、暴力がらみであるといって過言ではない。
その暴力の横行の前に、時には巻き添えで犠牲者になり、あるいはひっそりと身を避けるしか手段を持たない一般市民。味方であるべき法律さえも、建前論に終始するばかりである。
こんな中で、唯一、弱者に対しても公平な正義と真実を追求してくれる報道機関。なんと頼もしいことだろうか。
いま、その報道機関が暴力の標的にされている。犯人の逮捕は警察に期待するしかないが、庶民に出来得る可能な限りの支援のエールを、関係者に送ろうではないか。それはわたしたちの平和と幸福を守るためでもあるのだ。
(朝日・1987・9・29掲載)
再び朝日新聞が襲撃された。この無言の暴力は恐怖時代を予感させるものだ。断じて見過ごしてはならない。日本の将来のためにも。
言論側が、このような暴力による抑圧行為の前に屈することはないだろうが、故人は元来弱者である。故にこそ、記者諸氏の使命の重さを考え、さらなる奮起を願うばかりである。
法治社会に暴力は相容れられないものとの認識を強く持っていたわたしだが、昨今の風潮を見るに、本当にそうなのかと疑いたくなる。暴力団抗争に始まり、地上げ屋、誘拐殺人等、毎日報道される記事の大部分は、暴力がらみであるといって過言ではない。
その暴力の横行の前に、時には巻き添えで犠牲者になり、あるいはひっそりと身を避けるしか手段を持たない一般市民。味方であるべき法律さえも、建前論に終始するばかりである。
こんな中で、唯一、弱者に対しても公平な正義と真実を追求してくれる報道機関。なんと頼もしいことだろうか。
いま、その報道機関が暴力の標的にされている。犯人の逮捕は警察に期待するしかないが、庶民に出来得る可能な限りの支援のエールを、関係者に送ろうではないか。それはわたしたちの平和と幸福を守るためでもあるのだ。
(朝日・1987・9・29掲載)
「天然アユ」の表示に不信感
テレビのニュースで天然アユの特集を見て、日本の食品業界への不信を新たにした。
少なくなった天然物に代わり養殖物が主流を占めるのは納得できるものの、問題はその名称である。単純明快に養殖表示はされず、「流れ天然アユ」や「天然仕立て……」など実に紛らわしい表示で出荷されている。消費者心理につけ込んだ、そのやり口は何とも不快な限りである。
何もアユだけではない。何でもかでも手作りや天然、有機に表示されがちの食品の現状は、全く怖いばかりに放置されっ放しである。それをまた安易に受け入れている消費者側の責任も見過ごせない。
「文句が出てこないからいいじゃないか」という強気な養殖業者の言葉が、日本の消費者意識の低さを言い得て妙である。「こうなれば値段で判断するしかないですね」とニュースキャスターは言う。
さらに問題は、そんな不適格な表示を見過ごしている関係官庁にもある。ことは健康、生命にかかわる食品についてだ。もっと厳しい監視と規制があってもしかるべきである。安心して天然表示のアユを味わえる日が待ち遠しい。
(朝日・1988・7・8掲載)
テレビのニュースで天然アユの特集を見て、日本の食品業界への不信を新たにした。
少なくなった天然物に代わり養殖物が主流を占めるのは納得できるものの、問題はその名称である。単純明快に養殖表示はされず、「流れ天然アユ」や「天然仕立て……」など実に紛らわしい表示で出荷されている。消費者心理につけ込んだ、そのやり口は何とも不快な限りである。
何もアユだけではない。何でもかでも手作りや天然、有機に表示されがちの食品の現状は、全く怖いばかりに放置されっ放しである。それをまた安易に受け入れている消費者側の責任も見過ごせない。
「文句が出てこないからいいじゃないか」という強気な養殖業者の言葉が、日本の消費者意識の低さを言い得て妙である。「こうなれば値段で判断するしかないですね」とニュースキャスターは言う。
さらに問題は、そんな不適格な表示を見過ごしている関係官庁にもある。ことは健康、生命にかかわる食品についてだ。もっと厳しい監視と規制があってもしかるべきである。安心して天然表示のアユを味わえる日が待ち遠しい。
(朝日・1988・7・8掲載)