2×4工法の新会社に転職したのは四十三.これまで調理師だったので全く畑違いの職だった。会社は阪神大震災後、地震に強い工法として脚光を浴びる中発足した新会社だった。
採用された六人は研修のために2×4工法の本場である雪国新潟県長岡に向かった。ひと月の予定で旅館を定宿とした。朝早くパネル組み立て工場に向かい、夜遅く帰った。旅館の周りはコンビニも何も見当たらない辺鄙なところ。自動販売機も旅館に据えられたものだけ。いやはや、便利な生活を謳歌していた身には、不便このうえない環境だった。
しかし、ゲンナリしていたのは三日ほど。すぐに慣れた。ちょっと足を伸ばせば郊外型のスーパーやレストランなどがあるのも掴んだ。もう二週間も経つといっぱしの長岡っ子(?)に。夜の郊外店までの散歩も楽しんだ。まさに「住めば都」の体感である。
ひと月の研修が終わって、旅館で荷物を片付けていると妙に泣けて来たのには驚いた。
採用された六人は研修のために2×4工法の本場である雪国新潟県長岡に向かった。ひと月の予定で旅館を定宿とした。朝早くパネル組み立て工場に向かい、夜遅く帰った。旅館の周りはコンビニも何も見当たらない辺鄙なところ。自動販売機も旅館に据えられたものだけ。いやはや、便利な生活を謳歌していた身には、不便このうえない環境だった。
しかし、ゲンナリしていたのは三日ほど。すぐに慣れた。ちょっと足を伸ばせば郊外型のスーパーやレストランなどがあるのも掴んだ。もう二週間も経つといっぱしの長岡っ子(?)に。夜の郊外店までの散歩も楽しんだ。まさに「住めば都」の体感である。
ひと月の研修が終わって、旅館で荷物を片付けていると妙に泣けて来たのには驚いた。
手塩にかけた新米おいしく
「今年のコメは、ようけとれたやろ。えらい世話をしょったもんのう」
隣保の寄り合いで、そう声をかけられた。見てる上に大変だった。定年後得たパート仕事を終え、家事や畑仕事の合間の限られた時間に、できるだけ稲田に足を向けた。代掻き、田植え、肥料などの産婦、給排水の管理……。やることはいっぱいあった。
あぜの草刈りをはじめ、田にはびこるヒエも、育つと竹や小枝のような茎になる。稲の成長を追い抜く厄介もののヒエ退治は欠かせなかった。
泥まみれ、汗まみれのうえに虫にもさされ、いやはや参った、参った。だから、家族と味わう今年の新米の味は格別だ。
苦あれば楽ありってことだろう。
(神戸・2010・11・1掲載)
「今年のコメは、ようけとれたやろ。えらい世話をしょったもんのう」
隣保の寄り合いで、そう声をかけられた。見てる上に大変だった。定年後得たパート仕事を終え、家事や畑仕事の合間の限られた時間に、できるだけ稲田に足を向けた。代掻き、田植え、肥料などの産婦、給排水の管理……。やることはいっぱいあった。
あぜの草刈りをはじめ、田にはびこるヒエも、育つと竹や小枝のような茎になる。稲の成長を追い抜く厄介もののヒエ退治は欠かせなかった。
泥まみれ、汗まみれのうえに虫にもさされ、いやはや参った、参った。だから、家族と味わう今年の新米の味は格別だ。
苦あれば楽ありってことだろう。
(神戸・2010・11・1掲載)
20年前の店、居酒屋風に
なんか食べようかなってときに、不思議に注文してしまうのがトンカツである。ハンバーグの子ども、エビフライの女性に較べて、トンカツは男の食い物を代表していると言っていい。
20代のころ、アパートに一人住まいだったわたしは、3食のうち一触は必ずと言っていいほどトンカツを食べていた。おいしくて栄養があって安いのがうってつけだった。
それにアパートから50メートルほどのところに、トンカツ専門店があったせいだろう。この店はとにかくトンカツだけで、予定量が出れば終わりと言う風変わりな店だったが、それだけに出来は他店では味わえないものだった。
ちょっといい顔をしたおじいさんが夫婦だけでやっていたが、いつ行っても満員で並んで待った。手際のいい主人の年季たっぷりの調理ぶりを見ながら待ったものだった。
あれから20年余り、思いついて足を運んでみると居酒屋になっていた。昔のあの味がしのばれて、しばらく立ち尽くした。
(讀賣・1990・6・3掲載)
なんか食べようかなってときに、不思議に注文してしまうのがトンカツである。ハンバーグの子ども、エビフライの女性に較べて、トンカツは男の食い物を代表していると言っていい。
20代のころ、アパートに一人住まいだったわたしは、3食のうち一触は必ずと言っていいほどトンカツを食べていた。おいしくて栄養があって安いのがうってつけだった。
それにアパートから50メートルほどのところに、トンカツ専門店があったせいだろう。この店はとにかくトンカツだけで、予定量が出れば終わりと言う風変わりな店だったが、それだけに出来は他店では味わえないものだった。
ちょっといい顔をしたおじいさんが夫婦だけでやっていたが、いつ行っても満員で並んで待った。手際のいい主人の年季たっぷりの調理ぶりを見ながら待ったものだった。
あれから20年余り、思いついて足を運んでみると居酒屋になっていた。昔のあの味がしのばれて、しばらく立ち尽くした。
(讀賣・1990・6・3掲載)
商売に不可欠でもある車に乗り始めて既に10数年。大きな事故に遭遇することもなく今日に至っている。それがごく普通の市民の姿と思っていたのだが、本当はすごく好運だったのではと思わされる最近の交通事情だ。
高速道も一般道もこだわりなくぶっ飛ばす車。はみ出し運転はザラ、無指示の方向転換、割り込み運転。「そこのけ、そこのけお車が通る」って調子で鳴らす警笛。まさに弱肉教食、気配りの“気”も感じられないありさま。
「運転席に座ると、わたしが大将って気分になれるから、最高!」とのたまう女性。(そういや、職場のストレスが、運転してるとうそみたいに消えるぞ)と思い当たる。抜かれてカッとなり抜き返す。ここだけと、黄信号を突っ走った経験もある。思い出すだけでも背筋が寒くなる無謀運転は多い。
過日、交通刑務所の実態をテレビで観たが、「他人への配慮のない家臣運転が悔やみ切れぬ大事につながった。亡くなられた方のご家族に申し訳ない」と、収容者の悲嘆の言葉。実に悲惨極まりない光景でもあった。「車にのれば人が変わる」ではいけない。第三者、特に交通弱者への思いやりさえ持てれば、家族をも巻き込む悲劇は防げるはずだ。
(神戸・1987・11・1掲載)