ボクの家にはテレビがない。
本当はあるのだが、物置にしまってあり普段は全く見ない。
テレビは作り物だ。作り手によって毒にも薬にもなる。
今の世の中、あまりに毒になる番組が多いのでテレビは観ない。
必要な情報はインターネットで自分が選ぶことができる、ネットが繋がる状況ならば。
今はクィーンズタウンにいて、その家にはテレビがあるので、ニュースぐらいは見る。
特に2月のクライストチャーチの地震後のニュースはよく見た。
そこで気がついたことがあった。
意図的かどうか、たぶん意図的だろうな、恐怖や不安をあおるような発言が少なかった。
それよりも前向きで見ている人に力を与えるようなシーンが数多くあった。
市長のコメントも市民に協力を呼びかけ、自分達で頑張っていこうと、力を与えるものが多かった。
家に住めなくなって、庭でテントを張ってキャンプ生活をしなくてはならない家族へのインタビューがあった。
「確かに不便だけどこの地震で亡くなった方もいるし、自分達がそうなってもおかしくなかった。自分達は家族全員無事だし、避難しなくても自分の庭でなんとか生活ができる」
小さな女の子が母親の膝の上にいて、母がインタビューを受けるのを聞いて、「私の番はまだなの?」と可愛らしいセリフが横から入るのも微笑ましかった。
どうせ作り物ならこういうふうに作って欲しい。
ニュースの一環でお隣オーストラリアの番組が紹介されたが、インタビューは暗い照明の中、地震の時にいかに悲惨だったかを淡々と話し、輪をかけるようにチャララ~と暗ーいBGMが入った。
陰々鬱々で見ていてイヤになるような作り方だ。
地震直後にこんなのを作るなんて。所詮オーストラリアから見ればクライストチャーチの地震だって対岸の火事だ。
日本のテレビはもう何年も見ていないが想像はつく。
街頭インタビューでもいかに悲惨だったか、いかに自分が怖い思いをしたか、いかに自分がその状況で大変だったか、に焦点があたっている。
「生きていた中で一番怖かったです」「死ぬかと思いました」「こんなひどいことになるなんて」
それらの言葉はみな本音だ。だがそういう声を意図的に集めることもある。
作り手がそういうものを作っているのだ。ウラを返して言えば大衆がそれを望んでいるのだ。
見ている人はそこまで深く考えない。テレビは作られているという意識はない。
テレビで言ってるから、と盲目的に信じてしまう人は多い。
だからテレビであれが良いと言えば、次の日にスーパーでその物が売り切れになる。
ニュースというものは一番ひどい場所を映す。
なのでクライストチャーチの地震でも崩壊した建物を映した。
実際には街の中心部で被害は大きかったが、ボクの住んでいる場所では大した被害もなかった。
だがそれを見たクィーンズタウンに住んでいる人はクライストチャーチの全ての地域がそうだと思ってしまう。
これが日本でこのニュースを見れば、ニュージーランド全域でそうだと思ってしまう。
今回の日本の地震でもこちらにいれば、日本の全ての地域がダメージを受けたと思ってしまう。
北海道の知人はほとんど被害がなく、普段どおりの日常を過ごしていると連絡があった。
実家にはまだ連絡をとっていないが、便りのないのは良い知らせ、とのん気に構えている。
ニュースに映らない場所では、地震の影響はあるものの普段どおりの生活を皆しているのだ。
遠く離れた場所にいるとニュースを通して不安というものが増幅してしまう。
悲惨さを伝えるのはもういいだろう。
今、何が必要で、何をするべきか。
そういう視点で番組を作ってはくれないか。
マスメディアというものは機能的に働けばとても便利なものだし世の中の役に立つ。
だが使い方によっては洗脳の道具にもなりうる。情報は操作されるのだ。
何が必要で何が不要なのか、大切な物はなにか無駄な物はなにか、自分の心で判断する時期が来てると思うのだが。
「テレビで言ってたから」じゃなくてさ。
本当はあるのだが、物置にしまってあり普段は全く見ない。
テレビは作り物だ。作り手によって毒にも薬にもなる。
今の世の中、あまりに毒になる番組が多いのでテレビは観ない。
必要な情報はインターネットで自分が選ぶことができる、ネットが繋がる状況ならば。
今はクィーンズタウンにいて、その家にはテレビがあるので、ニュースぐらいは見る。
特に2月のクライストチャーチの地震後のニュースはよく見た。
そこで気がついたことがあった。
意図的かどうか、たぶん意図的だろうな、恐怖や不安をあおるような発言が少なかった。
それよりも前向きで見ている人に力を与えるようなシーンが数多くあった。
市長のコメントも市民に協力を呼びかけ、自分達で頑張っていこうと、力を与えるものが多かった。
家に住めなくなって、庭でテントを張ってキャンプ生活をしなくてはならない家族へのインタビューがあった。
「確かに不便だけどこの地震で亡くなった方もいるし、自分達がそうなってもおかしくなかった。自分達は家族全員無事だし、避難しなくても自分の庭でなんとか生活ができる」
小さな女の子が母親の膝の上にいて、母がインタビューを受けるのを聞いて、「私の番はまだなの?」と可愛らしいセリフが横から入るのも微笑ましかった。
どうせ作り物ならこういうふうに作って欲しい。
ニュースの一環でお隣オーストラリアの番組が紹介されたが、インタビューは暗い照明の中、地震の時にいかに悲惨だったかを淡々と話し、輪をかけるようにチャララ~と暗ーいBGMが入った。
陰々鬱々で見ていてイヤになるような作り方だ。
地震直後にこんなのを作るなんて。所詮オーストラリアから見ればクライストチャーチの地震だって対岸の火事だ。
日本のテレビはもう何年も見ていないが想像はつく。
街頭インタビューでもいかに悲惨だったか、いかに自分が怖い思いをしたか、いかに自分がその状況で大変だったか、に焦点があたっている。
「生きていた中で一番怖かったです」「死ぬかと思いました」「こんなひどいことになるなんて」
それらの言葉はみな本音だ。だがそういう声を意図的に集めることもある。
作り手がそういうものを作っているのだ。ウラを返して言えば大衆がそれを望んでいるのだ。
見ている人はそこまで深く考えない。テレビは作られているという意識はない。
テレビで言ってるから、と盲目的に信じてしまう人は多い。
だからテレビであれが良いと言えば、次の日にスーパーでその物が売り切れになる。
ニュースというものは一番ひどい場所を映す。
なのでクライストチャーチの地震でも崩壊した建物を映した。
実際には街の中心部で被害は大きかったが、ボクの住んでいる場所では大した被害もなかった。
だがそれを見たクィーンズタウンに住んでいる人はクライストチャーチの全ての地域がそうだと思ってしまう。
これが日本でこのニュースを見れば、ニュージーランド全域でそうだと思ってしまう。
今回の日本の地震でもこちらにいれば、日本の全ての地域がダメージを受けたと思ってしまう。
北海道の知人はほとんど被害がなく、普段どおりの日常を過ごしていると連絡があった。
実家にはまだ連絡をとっていないが、便りのないのは良い知らせ、とのん気に構えている。
ニュースに映らない場所では、地震の影響はあるものの普段どおりの生活を皆しているのだ。
遠く離れた場所にいるとニュースを通して不安というものが増幅してしまう。
悲惨さを伝えるのはもういいだろう。
今、何が必要で、何をするべきか。
そういう視点で番組を作ってはくれないか。
マスメディアというものは機能的に働けばとても便利なものだし世の中の役に立つ。
だが使い方によっては洗脳の道具にもなりうる。情報は操作されるのだ。
何が必要で何が不要なのか、大切な物はなにか無駄な物はなにか、自分の心で判断する時期が来てると思うのだが。
「テレビで言ってたから」じゃなくてさ。