庭仕事
2011-08-26 | 庭
寒波が去りクライストチャーチは春のような日が続いている。
絶好のガーデニング日和である。
冬の間、しばらくほったらかしにしてあった畑は雑草に覆われている。
土を耕し雑草を抜く。
抜いた雑草はまとめてニワトリコーナーへ。
ニワトリ達がうれしそうにそれをつつく。
食べられるところはヤツらが食べ、美味しい卵を産んでくれる。
今は毎日3個、これ以上ない新鮮な卵が手に入る。
雑草の根っこや茎は鳥の糞と混ざりまた土に還る。
その土は時間を経て、美味しい野菜を作ってくれる。
庭の中でサイクルができあがっている。
なんかうれしい。
家庭菜園はどれだけそこに手間をかけるかで出来が違ってくる。
雑草を抜く。土を耕す。堆肥を作る。液肥を作ってまく。雑草を煮出し虫除け液をつくりスプレーする。苗を植える。種を蒔く。弱い野菜には支えを立てる。剪定をする。水をまく。
やることはいくらでもある。
作業の合間に植物達に話しかける。
「大きくなって美味しい野菜になってくれよ」
手間をかけることにより、ボクのエネルギーが野菜に伝わり、よく育つ。
冬が来る前に植えたソラマメはすくすく育ち、小さな花が付き始めた。収穫は1ヶ月ぐらい先か。
ニンニクはゆっくりと育っている。これからどんどん育ち、球根が大きくなることだろう。
ブロッコリーは花をつけ、収穫した後からまた小さな花芽が出てきた。花芽を摘み終わったブロッコリーの芯を食べたらこれもなかなかいけた。
青梗菜、水菜、白菜は雑草状態だ。ニワトリが喜んで食べる。
大根は根が筋っぽく美味くないが、葉っぱはゴマ油でいためて味噌汁の具に。これもいける。
イチゴは株分けして別の場所に植え替えた。うまく根付いてくれよ。
シルバービートは冬の間に大きな葉っぱを食べてしまったのでしばらく元気がなかったが、芯のあたりから新しい葉っぱが次々出てきてすくすく育っている。
青々とした葉っぱはつやつやして、作り物みたいだ。
キャベツは冬を超え、丸みを帯びた中心部が徐々に大きくなってきた。
自分で食べる物が庭で育つ。幸せである。
こうやって土いじりを喜んでやっているが、それが許されない場所もある。
放射能に汚染されてしまった所では土を触ることも出来ない。
自分が土いじりが好きなだけに、そのことを考えると心が痛む。
土がきれい。水がきれい。空気がきれい。
これはとことん幸せなことであり、喜ぶべきことだ。
この喜びを忘れてはいけない。
それを今、感じ取ることが自分のやることでもある。
当たり前にある物事に感謝をするのだ。
自然と手は合わさり目を閉じる。
瞑想のような状態になると、体が前後に揺れる。
心地よい揺れだ。
太陽の光はポカポカと心地よく、植物達もそれを受けて嬉しそうだ。
人間は文明を生み出したものだから、地球上で一番偉い、と思いがちだ。
自然を自分の都合の良い方へコントロールしようとする。
大きな間違いである。
どれが優れているとか、どれが劣っているとかはない。
人も動物も鳥も虫も植物も目に見えない微生物まで全ては一つ。
その中で、植物をいただき、鳥から卵をいただき、動物や魚や鳥の命をいただく。
いただきますは、命をいただきますなのだ。
変に手を加えたものよりも、できるだけ自然に近い状態のものを旬の時に美味しくいただく。
ボクの中に流れる日本人の血がそれを求める。
和食の真髄は素材の旨みを最大に引き出すことである。
それを掴んでいれば洋食だろうが中華だろうがメキシコ料理だろうがベトナム料理だろうが和の心なのだ。
料理を通しても世界は繋がる。
庭で取ってすぐに調理する野菜、産みたての卵。
今ここにある最高級のご馳走である。
ニワトリに感謝。野菜に感謝。
生ゴミを土に還してくれたミミズや微生物に感謝。
野菜を育ててくれたきれいな空気と水に感謝。
全ての物事に感謝するべきなのだが、相変わらずうちの庭でクソをする隣のクソ猫には感謝できん。
まだまだ人間ができていないのか、それともこれはボクに対する試練なのか。
悩むところである。
絶好のガーデニング日和である。
冬の間、しばらくほったらかしにしてあった畑は雑草に覆われている。
土を耕し雑草を抜く。
抜いた雑草はまとめてニワトリコーナーへ。
ニワトリ達がうれしそうにそれをつつく。
食べられるところはヤツらが食べ、美味しい卵を産んでくれる。
今は毎日3個、これ以上ない新鮮な卵が手に入る。
雑草の根っこや茎は鳥の糞と混ざりまた土に還る。
その土は時間を経て、美味しい野菜を作ってくれる。
庭の中でサイクルができあがっている。
なんかうれしい。
家庭菜園はどれだけそこに手間をかけるかで出来が違ってくる。
雑草を抜く。土を耕す。堆肥を作る。液肥を作ってまく。雑草を煮出し虫除け液をつくりスプレーする。苗を植える。種を蒔く。弱い野菜には支えを立てる。剪定をする。水をまく。
やることはいくらでもある。
作業の合間に植物達に話しかける。
「大きくなって美味しい野菜になってくれよ」
手間をかけることにより、ボクのエネルギーが野菜に伝わり、よく育つ。
冬が来る前に植えたソラマメはすくすく育ち、小さな花が付き始めた。収穫は1ヶ月ぐらい先か。
ニンニクはゆっくりと育っている。これからどんどん育ち、球根が大きくなることだろう。
ブロッコリーは花をつけ、収穫した後からまた小さな花芽が出てきた。花芽を摘み終わったブロッコリーの芯を食べたらこれもなかなかいけた。
青梗菜、水菜、白菜は雑草状態だ。ニワトリが喜んで食べる。
大根は根が筋っぽく美味くないが、葉っぱはゴマ油でいためて味噌汁の具に。これもいける。
イチゴは株分けして別の場所に植え替えた。うまく根付いてくれよ。
シルバービートは冬の間に大きな葉っぱを食べてしまったのでしばらく元気がなかったが、芯のあたりから新しい葉っぱが次々出てきてすくすく育っている。
青々とした葉っぱはつやつやして、作り物みたいだ。
キャベツは冬を超え、丸みを帯びた中心部が徐々に大きくなってきた。
自分で食べる物が庭で育つ。幸せである。
こうやって土いじりを喜んでやっているが、それが許されない場所もある。
放射能に汚染されてしまった所では土を触ることも出来ない。
自分が土いじりが好きなだけに、そのことを考えると心が痛む。
土がきれい。水がきれい。空気がきれい。
これはとことん幸せなことであり、喜ぶべきことだ。
この喜びを忘れてはいけない。
それを今、感じ取ることが自分のやることでもある。
当たり前にある物事に感謝をするのだ。
自然と手は合わさり目を閉じる。
瞑想のような状態になると、体が前後に揺れる。
心地よい揺れだ。
太陽の光はポカポカと心地よく、植物達もそれを受けて嬉しそうだ。
人間は文明を生み出したものだから、地球上で一番偉い、と思いがちだ。
自然を自分の都合の良い方へコントロールしようとする。
大きな間違いである。
どれが優れているとか、どれが劣っているとかはない。
人も動物も鳥も虫も植物も目に見えない微生物まで全ては一つ。
その中で、植物をいただき、鳥から卵をいただき、動物や魚や鳥の命をいただく。
いただきますは、命をいただきますなのだ。
変に手を加えたものよりも、できるだけ自然に近い状態のものを旬の時に美味しくいただく。
ボクの中に流れる日本人の血がそれを求める。
和食の真髄は素材の旨みを最大に引き出すことである。
それを掴んでいれば洋食だろうが中華だろうがメキシコ料理だろうがベトナム料理だろうが和の心なのだ。
料理を通しても世界は繋がる。
庭で取ってすぐに調理する野菜、産みたての卵。
今ここにある最高級のご馳走である。
ニワトリに感謝。野菜に感謝。
生ゴミを土に還してくれたミミズや微生物に感謝。
野菜を育ててくれたきれいな空気と水に感謝。
全ての物事に感謝するべきなのだが、相変わらずうちの庭でクソをする隣のクソ猫には感謝できん。
まだまだ人間ができていないのか、それともこれはボクに対する試練なのか。
悩むところである。