あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

コントロールドラマ

2012-08-02 | 日記
人はどうやって他人からエネルギーを奪うか、という話である。
それはコントロールドラマというドラマを演ずるのだ。
ほとんどの人はこれを無意識にやっている。
ボクもやっていた時もあるし、今でも自分がそうだな、と思う時もある。
ドラマには脅迫者、尋問者、傍観者、被害者、という役があり、人はその状況に応じて別の役をすることもある。

先ずは脅迫者。この役が一番分かりやすい。
脅迫者のドラマは人を脅す事によってエネルギーを奪う。
ヤクザは暴力を使い人を脅し、金というエネルギーを奪う。
親が子供に暴力を振るい、子供からエネルギーを奪う。
暴力だけでなく権力や社会的地位、立場を利用することもある。
「オマエのところには仕事をまわさないぞ」
「出世したいんだろ、君?だから僕の言う事を聞きなさい。」立派な脅迫だ。
家の中でもお父っつあんが「誰のおかげで飯を食っているんだ」これも脅迫。
ヤクザが一番分かりやすい例だが、例えば警察などにもこういう人はいる。
まあ警察とヤクザは裏表の組織なので当たり前と言えば当たり前だが。
脅迫者は自分より強い人は脅迫できない。常に脅迫される人と上下の関係にある。

脅迫者は強い責めだが、これに対して被害者というドラマがある。こちらは受身だ。
親が子供に暴力を振るう場合、子供は絶対的な弱者なので抵抗できない。
この場合に被害者を演ずる。
被害者は「自分はこんなに可哀そうな人なんですよ、それをいじめてあなたは悪い人だ」と相手に罪悪感を持たせる。
何故か分からないけど、あの人といると自分が悪くなくても悪いような気がする。
これは被害者のドラマにどっぷりはまっているサインだ。
被害者は強い受身で相手の気をひく。
自分は可哀そうな人だ、ということを周りに示し同情を誘いエネルギーをを奪う。
その最たるものが自殺未遂だ。
僕は自殺未遂なんてしたことはないが、多分そういう人が一番言われたくない台詞はこういうものだろう。
「死ぬって?じゃあ死ねば。その代わり誰にも迷惑をかけないように黙って死にな。君が死のうがどうしようが俺の知ったこっちゃないけど、後味が悪くなるから俺にも誰にも知らさないように死んでね。お願い」
被害者のドラマではこう言われたい。
「死ぬなんて言わないで。あなたは悪く無いんですから。悪いのは○○です。だからがんばって」
○○の所には、私、友人、恋人、家族、会社の同僚、上司、会社、社会のシステム、この世界の全て、などが入る。
そこで面と向って「死ねば」とか「その状況を作っているのはあなた自身です」などと言われたらドラマは成り立たない。
親と子の関係では、脅迫者の親からは被害者の子供となり、被害者の親からは脅迫者の子供ができることが多い。
そして人は時と相手によってそれらを使い分ける。
ヤクザの下っ端は上に対しては被害者になることで自分を守るが、自分より低い者に対しては脅迫者となる。
ボクがまだ幼児の頃、兄弟げんかをして兄に負けた。腕力では兄にかなわない。
兄は脅迫者であり、ボクは被害者となり相手に罪悪感を持たせるような泣き方をした。
そんなドラマも過去の善き思い出である。

さて、それとは別に尋問者、傍観者、という役柄もある。
尋問者はいたって簡単。早く言えば質問魔である。
次から次へと質問をする。質問に答える方はエネルギーを浪費する。
質問に答えられれば、そんなの分かって当然という態度を取る。
答えられなければ、そんな事も分からないのか、となる。
どちらにしても尋問者は上、という態度で、これは学校の先生などに多いタイプだ。
以前出会った人の話を書こう。
湖沿いを走る車の中の会話。
「ガイドさん、この湖の深さはどれくらいですかね?」
「ん~、400mぐらいです」
「じゃあ、この国の平均収入は?」
えええ~?湖の話はどこへ行っちゃったんだよ、と思いつつ答えた。
「ボクは自分がどれだけ給料が安いかは教えてあげられるけど、人がどれだけ稼いでいるのか知らないし興味もありません。なのでこの国の平均収入がいくらか知らないんですよ。」
「ふーん。じゃあ平均年齢は?」
「ボクの考えでは寿命というものは人それぞれあって、その人が人生でやるべきことを終えた時に死ぬもので、それの平均を出したところで仕方ない、と思っています。なので分かりません。」
するとその人は怒り出して言った。
「平均という数字を出す事に意味があるんじゃないか!」
「そうですか。ボクはそう思わないので知らないんです。たぶん80歳ぐらいじゃないかなあ。」
ちなみにボクがこの場でいう『ぐらい』というのはプラスマイナス10歳ぐらいの幅だ。
その人は呆れて黙ってしまったが、1日山歩きをしていろいろ話をするうちに自然のエネルギーを一杯受け取ったのだろう。
尋問者のドラマは出てこなくなり、その日の最後には「もっとお話を聞きたい」とお食事に誘われた。
その日は会社の飲み会があったので、丁寧にお断りをした次第だ。
尋問者にとって、質問の内容より相手を困らせて自分が優位に立つということが目的なので、質問の内容は何でもよい。
相手が答えられなくなり萎縮するまで質問は続く。
このケースでその人が怒ったのは、ボクが質問に答えられなくても、あっけらかーんと全然困らなかったからだ。
こうなるとドラマは成立しない。
なのでどうしていいか分からずに怒ってしまったのだ。

親が尋問者の場合、子供は傍観者になる。
何をかくそう(隠さないけど)僕の父は尋問者だった。
そしてボクは傍観者だった。
親が尋問者の場合、子供は何を答えてもやり込まれた気になる。
そうなると自分の意見をはっきりと言わない。
ボクも中学から高校にかけて、そういう時があった。
父親には自分の意見を言えないので、思ったことは母親に言っていた。
母が父にそれを言うと、父は怒り「まるで通訳じゃないか」と叱られた。
叱られるとさらに萎縮して何も言えなくなる。
ボクはさらに自分の意見をはっきり言わない傍観者となった。
傍観者は被害者ほどではないが受身でエネルギーを奪う。
自分を神秘的なベールでくるみ、よそしいよそ態度を取り、はっきりと物を言わず、相手の質問を誘う。
初対面での会話。
「趣味は何ですか?」
「趣味ですか、旅行かな」
「旅行は?国内?海外?」
「ええ、海外にちょっとね」
「海外と言うと?ヨーロッパとか?」
「いえヨーロッパはあまり行きません。」
「じゃあアメリカ?」
「アメリカは好きじゃなくてね・・・」
「じゃあアジア?アフリカ?」
「いえ、まあ、オセアニアの方ですね」
「すると、オーストラリア?」
「いえ、ニュージーランドなんです」
最初からニュージーランドって言え!と言いたくなる。
これは極端な例だが、まあこんな具合だ。

これがコントロールドラマの仕組みで、エネルギーの奪い合いの現場には常にこのドラマがある。
自分の周りを冷静に見ればあちこちで見られるはずだ。そして自分自身も。
ボクもふと気が付くと子供に対して尋問者になっていることがあった。気をつけねば。
エネルギーを奪うのではなく、分け与える場ではドラマは生まれない。
だがこのドラマに気が付かず、どっぷりはまるとなかなかそこから抜けるのは難しい。
エネルギーの奪い合いとは、結局エゴに支配されているからだ。
そしてエゴはその人に気づかれないよう、人の心の奥深くに潜んでいる。
エゴを克服するためには自分の心と向き合う必要がある。
自分のエゴを認識した時にエゴは消える。
そうならないようにエゴは上手く心の闇に身を隠している。
誰だって自分の心の奥を覗くのは怖い。
だがこれからの世界を開く鍵は自分の心の奥にある。
いや、それを抜きにして、新しい世界は来ない。
エネルギーの奪い合いを卒業して、分け合う方向へ向うのだ。
エネルギーは分け合えば余る。奪い合えば足りなくなる。
もうお分かりだと思うが、とどのつまり、エネルギーとは愛なのだ。
愛こそが全て。



コメント (4)
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