あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

クレクレ君。

2013-08-21 | 日記
常日頃から書いていることだが、この世で一番大切なものは愛である。
真実の愛ではそれに関わる人や物が全て幸せになれる。
誰かの不幸の上に自分の幸せがあるというのは、真の愛ではない。
これは自分の周りを見回せばすぐに分かる。
そう考えると今の競争社会というものが愛とは遠いところにあるのも理解できる。
さて個人の感情で、愛の対極にあるものは何でしょう?
すぐに頭に浮かぶ物は、憎しみとか怒りとか憎悪という言葉だが、こういった感情も愛のかけらがあり方向性が違うので存在する。
対極、というよりもっと離れたところにあるもの。
それは無関心である。
「俺は知らないよ」「私は知らないわ」という態度だな。
愛を語る上で避けては通れないものに、自分自身の内部への追求という物があるのだが、そこから逃げて殻に閉じこもる。
そういう人から出る言葉は言い訳と正当化ばかりで、言葉に何も重みがない。
そして他人との比較。
他人を見ているうちは自分自身を見なくてもいい。
その比較の対象となるのは、自分より下の人で「あいつより俺はまだましだ」と言って自分を慰める。
「じゃあどうすればいいんだよ。分かんねーよ。教えてくれよ」
ここで出た、クレクレ君登場である。
自分と向き合う事を恐れ、人が教えてくれるものと思っているクレクレ君。
身の回りに起こる出来事を単なる偶然と片付け、そこから何も学ぼうとしないクレクレ君。
何かというと周りのせいにして、言い訳と正当化を並べあげるクレクレ君。
自分から行動を起こすことなく、誰かが何とかしてくれると思っている、他力本願のクレクレ君。
クレクレ君は誰の心の中にもいる。エゴと存在は似ているかな。
人によってはこのクレクレ君とエゴに支配されている事に全く気がついていない。
そういう人の周りではたいていろくでもないことが起こるが、自分を正当化することでバランスを保とうとする。
しかし根本的な問題を解決しないので同じことをくり返す。
クレクレ君は基本的に受身なので、例えば投票にも行かない。
「誰が政治家になっても同じだから」というのが自分を正当化する言い訳だ。
そのくせ「こんな社会になっているのは政治家が悪いからだ」と責任を政治家に向ける。
物事を自分で調べずに人に聞く。
自分に都合の良い答を選択して、悪い結果が出たら「あの人がああ言ったから」とその人を非難する。
その答を選択した自分の責任からは徹底的に逃げる。
そして最後にはお得意の無関心。
「私は知らないわ、関係ないわ」「俺は知らねーよ、関係ねーよそんなこと」となる。

目に見えている全ての出来事というのは自分の心が作り出している。
例えその場では悪い事に見えようが、何かしら気づきのチャンスなのだ。
それにきっちりと対処をすれば同じ事柄は起こらないだろうし、同じ事が起こるということはまだ気づきが足りないという事だ。
これは個人でも会社でも社会でも同じ事。
大きな例をあげれば原発の事故。
他所の国で起こった事故を「うちの国は関係ないよ」ととらえやってきた結果、自分の国でも事故が起こった。
多くの人はそれで目覚めたが、それでも「あれは単なる偶然、運が悪かっただけ」と言い張り、その事故の後片付けもできていないのに先に進もうとしている人もいる。
その先に来るものは何か・・・。
小さい例で言えば、自動車事故があったが誰も怪我がなかった。
「修理代もかかるし運が悪かったなあ」ととらえるか「怪我が無くて良かった。これを機会に自分の運転を見つめなおそう」と思うか。
その先の結果はどうなるか。
事の大小はあれ、本質的には同じ事なのである。

そんなクレクレ君。
誰の心の中にもいるクレクレ君。
小さくて可愛いクレクレ君もいれば、巨大で人の心を支配しているようなクレクレ君もいる。
そんなクレクレ君に大サービス。
どうすればいいのか教えてあげよう。
あなたの心と繋がりなさい。
答は全てあなたの心にある。
「分からない」のではない。
分かろうとしていないのだ。
目覚めの時は来た。
鍵は自分の心の奥にある。
それを覗く怖れを捨てなさい。
ひたすら純粋な愛を信じ、心と繋がるのです。
それが答です。

なんか日曜日の早朝にやってるラジオ番組みたいになっちゃったな。
コメント
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