すみませんという言葉がある。
すみませんとは動詞『済む』に打ち消しの『ぬ』がついた『済まぬ』の丁寧語。
「済む」は「澄む」と同源で澄むの「濁りや混じりけがなくなる」といった意味から、「済む」とは「仕事が済む」のように「終了する」という意味で使われ「気持ちが収まる」「気持ちが晴れる」という意味でも使われる。
「それでは私の気持ちが済みません」とは気持ちがおさまりません、気持ちが晴れませんということ。
謝罪の時に使うすみませんは、相手に失礼なことをしてしまい、このままでは気持ちが晴れませんの意。
感謝の「すみません」は「何のお返しもできずにすみません」の意味からか。
「ちょっとすみません」「すみませんが○○してください」という呼びかけや依頼の「すみません」は軽い謝罪の意味からと考えられる。
「すいません」は「すみません」が変化した形で関西弁の「すんません」「すんまへん」も同じである。
語源由来辞典より
さらに最近聞いた話では「すみません」が崩れに崩れ「さーせん」になっているそうな・・・。
今回はこの言葉の話である。
「すみません」という言葉は日本語特有のものだろうか。
「ごめんなさい」の代わりに、また「ありがとう」の代わりにも使われる便利な言葉なのだが、使い方を誤るとろくでもないものになる。
以前出会った人は、自分がミスをして何故そういう事になったかと問いただしてもひたすら「すいません」を繰り返した。
例をあげればこんな具合だ。
「あちゃー、お前やってくれたなあ」
「すみません」
「なんでこんな事になっちゃったの?」
「すみません」
「いやさ、誤るのはもういいよ。終わったことだし。だけど何故こんな事が起きたのさ?」
「すみません」
「それは質問に答えてないよ」
「すみません」
「その『すみません』は『質問に答えないすみません』なのか、『やった事に対するすみません』なのか?」
「分からないです。すみません」
「もういいよ」
こうなると小噺のネタですな。
「何故そういうことが起こったのか」という事から目を逸らしているので全く同じ事を繰り返す。
そしてまた「すみません」の繰り返しだ。
そういう人は「すみません」という言葉を利用している。
すみませんを連発することにより、自分を下げる。
そこで自分と相手に上下関係を作ってしまう。
「自分はこんなに謝っているんです。反省しているんです。」という事をアピールして許しを得る事が目的となっている。
なので肝心かなめの『何故そういう事が起こったか』に意識は向かない。
よって同じ事を繰り返す。
叱る方だって謝り続ける人を叱っていたら何か自分が悪い事をした気になっちゃうではないか。
そこまで計算してたら本当にイヤなヤツなのだが、無意識にこれをやっている人は少なくないはずだ。
それから「ありがとう」の代わりに「すみません」を使う人。
僕は自分の所で取れた野菜や卵を友達の所に持っていくのだが、その時に「すみません、すみません」と連発して、自分から上下関係を作ってしまう人。
友達のカナちゃんのように「今ちょうど切らしていたんだ、ありがとう。あっはっは~」とあっけらからんと貰ってくれればいいのだが、そういう人ばかりでもない。
貰うのが下手な人は、物をあげることも下手なんだろうな。
人に物をあげる時、一切の見返りを求めないいわゆる『無償の愛』。
「これだけの物をあげるんだから」「自分はこれだけやっているのに」そういう想いがある人は物を貰うことにも引け目を感じてしまうのではなかろうか。
僕は人によく物をあげるがその時に気をつけている事は、あげる事によって自分を上にしない、上下関係を作らないことである
そして人から物を貰う時も下げない。
そして遠慮なくもらう。
お客さんからチップを貰うし、日本に帰ったお客さんもいろいろな美味しい物を送ってくれる。
友達から物をもらうし、スポンサーからは高価な山用品を貰う。
そしてどんな時も「ありがとう」
ふと気がついたのだが「ありがとう」と言えば上下関係はできないが「すみません」は上下ができてしまう。
というより自分を下げてしまう言葉だな。
元々は自分を一段低くした、奢り高ぶらない謙虚な姿勢を表す言葉だったのだろうが、今はそれで上下を作りその中に浸っている。
なので僕は言う。
「すみませんではなくてありがとうですよ」
貰う時も「ありがとう」
あげる時も「貰ってくれてありがとう」
するとほら、上下はできないぞ。
お互いに「ありがとう」と言い合うのは理想の人間関係である。
そこに争いは無いし、上下もない。
あるのは共に地球上に生きる一体感。
それがワンネス。
あーあ、今回も又、ここへ来てしまったか。
どうしてもたどりつく所はここになってしまう。
そういうものだから、仕方あるまい。
こんなオチですみません、ではないよな。
今回も読んでいただいてありがとうございます。
すみませんとは動詞『済む』に打ち消しの『ぬ』がついた『済まぬ』の丁寧語。
「済む」は「澄む」と同源で澄むの「濁りや混じりけがなくなる」といった意味から、「済む」とは「仕事が済む」のように「終了する」という意味で使われ「気持ちが収まる」「気持ちが晴れる」という意味でも使われる。
「それでは私の気持ちが済みません」とは気持ちがおさまりません、気持ちが晴れませんということ。
謝罪の時に使うすみませんは、相手に失礼なことをしてしまい、このままでは気持ちが晴れませんの意。
感謝の「すみません」は「何のお返しもできずにすみません」の意味からか。
「ちょっとすみません」「すみませんが○○してください」という呼びかけや依頼の「すみません」は軽い謝罪の意味からと考えられる。
「すいません」は「すみません」が変化した形で関西弁の「すんません」「すんまへん」も同じである。
語源由来辞典より
さらに最近聞いた話では「すみません」が崩れに崩れ「さーせん」になっているそうな・・・。
今回はこの言葉の話である。
「すみません」という言葉は日本語特有のものだろうか。
「ごめんなさい」の代わりに、また「ありがとう」の代わりにも使われる便利な言葉なのだが、使い方を誤るとろくでもないものになる。
以前出会った人は、自分がミスをして何故そういう事になったかと問いただしてもひたすら「すいません」を繰り返した。
例をあげればこんな具合だ。
「あちゃー、お前やってくれたなあ」
「すみません」
「なんでこんな事になっちゃったの?」
「すみません」
「いやさ、誤るのはもういいよ。終わったことだし。だけど何故こんな事が起きたのさ?」
「すみません」
「それは質問に答えてないよ」
「すみません」
「その『すみません』は『質問に答えないすみません』なのか、『やった事に対するすみません』なのか?」
「分からないです。すみません」
「もういいよ」
こうなると小噺のネタですな。
「何故そういうことが起こったのか」という事から目を逸らしているので全く同じ事を繰り返す。
そしてまた「すみません」の繰り返しだ。
そういう人は「すみません」という言葉を利用している。
すみませんを連発することにより、自分を下げる。
そこで自分と相手に上下関係を作ってしまう。
「自分はこんなに謝っているんです。反省しているんです。」という事をアピールして許しを得る事が目的となっている。
なので肝心かなめの『何故そういう事が起こったか』に意識は向かない。
よって同じ事を繰り返す。
叱る方だって謝り続ける人を叱っていたら何か自分が悪い事をした気になっちゃうではないか。
そこまで計算してたら本当にイヤなヤツなのだが、無意識にこれをやっている人は少なくないはずだ。
それから「ありがとう」の代わりに「すみません」を使う人。
僕は自分の所で取れた野菜や卵を友達の所に持っていくのだが、その時に「すみません、すみません」と連発して、自分から上下関係を作ってしまう人。
友達のカナちゃんのように「今ちょうど切らしていたんだ、ありがとう。あっはっは~」とあっけらからんと貰ってくれればいいのだが、そういう人ばかりでもない。
貰うのが下手な人は、物をあげることも下手なんだろうな。
人に物をあげる時、一切の見返りを求めないいわゆる『無償の愛』。
「これだけの物をあげるんだから」「自分はこれだけやっているのに」そういう想いがある人は物を貰うことにも引け目を感じてしまうのではなかろうか。
僕は人によく物をあげるがその時に気をつけている事は、あげる事によって自分を上にしない、上下関係を作らないことである
そして人から物を貰う時も下げない。
そして遠慮なくもらう。
お客さんからチップを貰うし、日本に帰ったお客さんもいろいろな美味しい物を送ってくれる。
友達から物をもらうし、スポンサーからは高価な山用品を貰う。
そしてどんな時も「ありがとう」
ふと気がついたのだが「ありがとう」と言えば上下関係はできないが「すみません」は上下ができてしまう。
というより自分を下げてしまう言葉だな。
元々は自分を一段低くした、奢り高ぶらない謙虚な姿勢を表す言葉だったのだろうが、今はそれで上下を作りその中に浸っている。
なので僕は言う。
「すみませんではなくてありがとうですよ」
貰う時も「ありがとう」
あげる時も「貰ってくれてありがとう」
するとほら、上下はできないぞ。
お互いに「ありがとう」と言い合うのは理想の人間関係である。
そこに争いは無いし、上下もない。
あるのは共に地球上に生きる一体感。
それがワンネス。
あーあ、今回も又、ここへ来てしまったか。
どうしてもたどりつく所はここになってしまう。
そういうものだから、仕方あるまい。
こんなオチですみません、ではないよな。
今回も読んでいただいてありがとうございます。