世の中には様々な情報がある。
情報が溢れている時代と言ってもいいだろう。
その情報とは昔は聞き伝えの話から始まり、新聞や本という活字による物に変わり、ラジオやテレビというマスメディア、そして今はインターネットが主流だろう。
こういった情報の一つ一つに発信者というフィルターがある。
そして情報とは本物や真実もあり、真っ赤な嘘もあり、本物が少しだけ混ざった作り話もある。
要はどこまで本当でどこまで嘘か分からないわけだ。
それでも僕達は様々な情報を自分なりに取捨選択してそれによって自分の生き方を決めている。
例えば僕の家にはテレビは無い。
テレビは洗脳の道具ぐらいにしか思っていないし、ニュースも話半分ぐらいにしか信じていない。
大きなニュース、例えばどこかで飛行機が落ちたという話があっても、どうせその裏には色々な話があり、そういった話は出てこない物だと思っている。
テレビのニュースは見ないが、インターネットでテレビの番組などを見ることはある。
今やネットの時代で、見る番組をスポンサーやテレビ局の都合で押し付けられることなく、自分が選んで見ることができる。
そういう意味では、良い時代になったものだ。
僕がネットで得る情報とはフェイスブックで誰かが取り上げた物や他人のブログ。
『天下泰平』『伊勢ー白山道』『IN DEEP』『地球の裏側ニュース』『めんどぅーさの「子育て失敗論」』『黄金の金玉を知らないか』『キチガイ医の素人的処方箋』
この辺りが好きでよく見る。
こういった人達は直接会った事もないし、これからも会うかどうかも分からないが、何かの拍子で知り、読んで納得をして読者となった。
そういう意味ではこれもご縁と呼んでいいのだろう。
こういったネット上の情報は発信者というフィルターがある。
このブログ『あおしろみどりくろ』ならば、情報源は他人のブログで僕の生き様や物の考えがフィルターとなり記事を発信しているわけだ。
僕が人の話や記事を含めた情報を見聞きして、自分に課していることがある。
それはどんな情報でも自分で選んだ瞬間から自分の責任であるということだ。
だから「あの人が言ったから」という言い訳は一切通用しない。
すべて自分の責任なのだ。
テレビの言う事を鵜呑みにしないのも自分の責任。
見ず知らずの赤の他人の言う事を奉るのも自分の責任。
仲のいい友達が言う言葉を信じるのも自分の責任。
そして得た情報によりどう動くのかも自分の責任。
自分の行動により身の周りがどうなるかも自分の責任。
と、考えている。
さて僕はフェイスブックもやっているが、これも使いようだなと思う。
何年か前に友達になった人が、あまりに原発反対の事ばかりに「いいね」を押して、その人の憤りが感じられてうんざりして、その人の「いいね」を見なくするやり方がわからずに友達を解約してしまったこともある。
今はさすがにそういう事もなくなったのだが、各個人が発する情報は溢れている。
だれが何を食ったというどうでもいい情報もあるし、「おお、これは」と思わずうなるような言葉がちょっとした書き込みにあったりする。
例によって僕は一切いいねを押さないが、気分によって人のところに書き込みをすることはある。
そしてまた最近の風潮なのだろうが簡単にできるという事が大事というか、重点を置かれているのだろうなと。
料理のレシピで調べると直ぐに出てくるのは「簡単、美味しい」という言葉のもので「簡単じゃなくてきっちりと手間をかけて美味しい」というようなガンコオヤジ向けのものは探さないと出てこない。
「簡単、美味しい」のレシピを見ると電子レンジを調理に使ったり、化学調味料を当たり前に使ったり、というような物が続々と出てくる。
そういうどうでもいい情報に埋もれ、見たい情報が直ぐに出ない。
見たい情報を直ぐに見れるようにするには有料サービスというわけだ。
なるほどね、納得。
世の中全体が簡単という方向に動いている、と言うのはオヤジのたわ言か。
自分の撮った写真を発表するのもアイフォンなら簡単にフェイスブックに載せられる。
たぶん10秒ぐらいでできるのではなかろうか。
これが僕のように時代の波に乗り遅れつつある人にはおおごとだ。
まずデジカメで写真を撮り、それをPCに取り込んで、そしてその写真をある程度の大きさに縮小して、ブログに載せるという手間がかかる。
実に面倒くさいので写真を載せる時はこれぞという時である。
「そんな事やってないで、今ならもっと楽なやりかたがあるよ」
そういう声もあり、確かにごもっともなのだが、その人の言う楽なやり方に移るのがおっくうで、こうやってだらだらと文なぞを書いている。
簡単に写真を公表すれば、長々と文なぞ書かずに情報を発信できる。
それによって人々は反応し、地球の裏側の人ともコミュニケーションが取れる。
それが良いとか悪いとかでは無く、今の世の中とはそういうものなのだ。
なんか似たような話を以前にも書いたが、まあいいか。
僕のブログの記事、この情報とは僕という40代半ばを過ぎたニュージーランドに住むアウトドア好きの日本人のおっさんというフィルターを通して公表している情報である。
この情報には偏りがある。
同時にいかなる情報も偏りがあって当然だと思う。
完全に中立な物などこの世に無い。
傍観者が存在すればそれによって物質に何らかの影響を与える、という理論を聞いた事がある。
さすれば自分というフィルターを通して出る情報が他の人に影響を与え、世を善い方向に導くという事はなかろうか。
漠然とそんな事を考えた。
情報が溢れている時代と言ってもいいだろう。
その情報とは昔は聞き伝えの話から始まり、新聞や本という活字による物に変わり、ラジオやテレビというマスメディア、そして今はインターネットが主流だろう。
こういった情報の一つ一つに発信者というフィルターがある。
そして情報とは本物や真実もあり、真っ赤な嘘もあり、本物が少しだけ混ざった作り話もある。
要はどこまで本当でどこまで嘘か分からないわけだ。
それでも僕達は様々な情報を自分なりに取捨選択してそれによって自分の生き方を決めている。
例えば僕の家にはテレビは無い。
テレビは洗脳の道具ぐらいにしか思っていないし、ニュースも話半分ぐらいにしか信じていない。
大きなニュース、例えばどこかで飛行機が落ちたという話があっても、どうせその裏には色々な話があり、そういった話は出てこない物だと思っている。
テレビのニュースは見ないが、インターネットでテレビの番組などを見ることはある。
今やネットの時代で、見る番組をスポンサーやテレビ局の都合で押し付けられることなく、自分が選んで見ることができる。
そういう意味では、良い時代になったものだ。
僕がネットで得る情報とはフェイスブックで誰かが取り上げた物や他人のブログ。
『天下泰平』『伊勢ー白山道』『IN DEEP』『地球の裏側ニュース』『めんどぅーさの「子育て失敗論」』『黄金の金玉を知らないか』『キチガイ医の素人的処方箋』
この辺りが好きでよく見る。
こういった人達は直接会った事もないし、これからも会うかどうかも分からないが、何かの拍子で知り、読んで納得をして読者となった。
そういう意味ではこれもご縁と呼んでいいのだろう。
こういったネット上の情報は発信者というフィルターがある。
このブログ『あおしろみどりくろ』ならば、情報源は他人のブログで僕の生き様や物の考えがフィルターとなり記事を発信しているわけだ。
僕が人の話や記事を含めた情報を見聞きして、自分に課していることがある。
それはどんな情報でも自分で選んだ瞬間から自分の責任であるということだ。
だから「あの人が言ったから」という言い訳は一切通用しない。
すべて自分の責任なのだ。
テレビの言う事を鵜呑みにしないのも自分の責任。
見ず知らずの赤の他人の言う事を奉るのも自分の責任。
仲のいい友達が言う言葉を信じるのも自分の責任。
そして得た情報によりどう動くのかも自分の責任。
自分の行動により身の周りがどうなるかも自分の責任。
と、考えている。
さて僕はフェイスブックもやっているが、これも使いようだなと思う。
何年か前に友達になった人が、あまりに原発反対の事ばかりに「いいね」を押して、その人の憤りが感じられてうんざりして、その人の「いいね」を見なくするやり方がわからずに友達を解約してしまったこともある。
今はさすがにそういう事もなくなったのだが、各個人が発する情報は溢れている。
だれが何を食ったというどうでもいい情報もあるし、「おお、これは」と思わずうなるような言葉がちょっとした書き込みにあったりする。
例によって僕は一切いいねを押さないが、気分によって人のところに書き込みをすることはある。
そしてまた最近の風潮なのだろうが簡単にできるという事が大事というか、重点を置かれているのだろうなと。
料理のレシピで調べると直ぐに出てくるのは「簡単、美味しい」という言葉のもので「簡単じゃなくてきっちりと手間をかけて美味しい」というようなガンコオヤジ向けのものは探さないと出てこない。
「簡単、美味しい」のレシピを見ると電子レンジを調理に使ったり、化学調味料を当たり前に使ったり、というような物が続々と出てくる。
そういうどうでもいい情報に埋もれ、見たい情報が直ぐに出ない。
見たい情報を直ぐに見れるようにするには有料サービスというわけだ。
なるほどね、納得。
世の中全体が簡単という方向に動いている、と言うのはオヤジのたわ言か。
自分の撮った写真を発表するのもアイフォンなら簡単にフェイスブックに載せられる。
たぶん10秒ぐらいでできるのではなかろうか。
これが僕のように時代の波に乗り遅れつつある人にはおおごとだ。
まずデジカメで写真を撮り、それをPCに取り込んで、そしてその写真をある程度の大きさに縮小して、ブログに載せるという手間がかかる。
実に面倒くさいので写真を載せる時はこれぞという時である。
「そんな事やってないで、今ならもっと楽なやりかたがあるよ」
そういう声もあり、確かにごもっともなのだが、その人の言う楽なやり方に移るのがおっくうで、こうやってだらだらと文なぞを書いている。
簡単に写真を公表すれば、長々と文なぞ書かずに情報を発信できる。
それによって人々は反応し、地球の裏側の人ともコミュニケーションが取れる。
それが良いとか悪いとかでは無く、今の世の中とはそういうものなのだ。
なんか似たような話を以前にも書いたが、まあいいか。
僕のブログの記事、この情報とは僕という40代半ばを過ぎたニュージーランドに住むアウトドア好きの日本人のおっさんというフィルターを通して公表している情報である。
この情報には偏りがある。
同時にいかなる情報も偏りがあって当然だと思う。
完全に中立な物などこの世に無い。
傍観者が存在すればそれによって物質に何らかの影響を与える、という理論を聞いた事がある。
さすれば自分というフィルターを通して出る情報が他の人に影響を与え、世を善い方向に導くという事はなかろうか。
漠然とそんな事を考えた。
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