あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

西の男

2019-06-12 | 
2005シーズンの数少ないパウダーの日、僕はブロークンリバーにいた。
この年は記録的な暖冬で八月半ばまでまともな降雪はなく、地元のスキーヤー、スノーボーダー、山のスタッフはじりじりしながら天の恵みを待っていた。
人々の期待に応えるように、南島を低気圧に伴う前線が通過した。山々は1日で冬化粧を終えた。
前日までの雪は夜のうちに止み、朝の光が厚いパウダースノーを照らす。
いきなり大量の雪が降った後は雪崩の起こる確率も高い。となりのクレーギーバーンや、反対側のチーズマンから盛んに発破の音が響く。ここブロークンリバーでも早朝から爆薬を使ったアバランチコントロール、雪崩管理が行なわれている。
中心になって動いているのはヘイリー・グリーンその人である。
ここで一番、新雪を滑るという意味での力を持ち、この山にいる全員からの厚い尊敬、信頼を得ている。
彼は多くは語らない。
しかし一度口を開けば周りの人達は会話を中断し、彼の言葉に耳を傾ける。長い間、現場に立ち続ける男の言葉には重みがある。
そんな彼がオープンを待っている人々のはるか上、山頂近くにいる。
突然彼が立っている場所から数メートル下で煙が上がる。次の瞬間、山に爆音がこだまする。そして煙が上がった場所を頂点に雪の波が斜面を下る。
幅数十メートル、雪崩の規模としてはそれほど大きいものではない。しかし人間が埋まるには充分な大きさだ。
人々が見守る中、雪崩は数百メートルほどで止り、全員の期待と興奮の混ざったため息が聞こえた。
ヘイリーはそこから一つ奥の斜面に移り、純白の雪面に自分の跡を刻み込む。人々から歓声があがる。
この瞬間、この山はヤツのものであり、ヤツこそ一番先に滑るべき人間なのだ。少なくとも自分にはそう映った。
下に下りてきたヤツを全員が注目する。オープン看板を持ちながらヤツは言った。
「気をつけろよ。今日の雪は昨日と違うぞ」
その場の空気が一瞬で凍りつく。『そんなに雪崩が危ないのか』全員がそう思ったはずだ。目の前で雪崩を見た直後なのだ。
次の瞬間ヤツはニヤリと笑った。
ニコニコでなく、ガハハでもなくニヤリなのだ。
凍った空気は一気に解け全員の気持ちが一つになる。『そんなにおいしいのか?』
雪崩の危険が高いイコールおいしい、という事はここにいる全員知っている。みんなの期待が一気に盛り上がる。
ヤツはそれ以上語らず、看板を持って上がって行った。
数分後、その場に居合わせた全員がヤツのニヤリの意味を知った。
にくいオヤジだ。ヘイリー・グリーン、彼の存在なくしてこの山は語れない。

シーズンも終わりに近づくと人々の間でも「夏はどうする?」といった話が多くなる。
ブロークンリバーのパーマーロッジで日向ぼっこをしながら話をする。
「なあヘイリー、シーズンが終わったら遊びに行ってもいいか?」
「おお、いいぞ。テントは持っているか?」
「もちろん。よーし!西海岸でキャンプだ」
「今はホワイトベイトの時期だ。チビも連れてくればいい。どうだミユキ、おじさんの家にキャンプに来るか?」
ヘイリーは深雪に話し掛けた。娘はテレて僕の後ろに隠れてしまった。
「なあ深雪、お前ヘイリーのうちにキャンプに行きたいか?」
僕は日本語で話し掛けた。
「行きたい!」
娘は力強く答えた。
「だったらヘイリーにちゃんとあいさつしなくちゃダメだぞ」
この時点で、娘が保育園以外で英語でしゃべれるのは、僕の友達のマリリン一人、それもサンキューのみ。
マリリンもブロークンリバーのクラブメンバーで、僕がメンバーになったのは彼女のおかげなのだ。
毎回毎回彼女の店に行く度にチョコレートをもらい続け、2年目でやっとサンキューと言えるようになった。
「マリリン大好き」などと僕には言うが、本人を目の前にすると恥ずかしくなってしまうらしい。
ブロークンリバーの人達とも話しをしたいが、英語で喋るのが恥ずかしいのだ。

後日、僕は娘と西へ向かった。
キャンプに備え買い物をする。家の近所の肉屋では、自家製のハムホックやベーコンなどがある。
ハムホックとは豚の脛を燻製にした物で、骨の周りの肉をナイフで削いで食べる。魚でも肉でも骨の周りの肉は美味い。しっかりとした肉の味で、他の部位にはない旨さがある。皮は煙で茶色く燻されていて、骨と一緒に煮てスープを取る。捨てるところが全く無いというのが好きだ。これで1本$4・50、全く庶民の味方の肉屋だ。
ベーコンはというと、ヒモでぐるぐる巻きにした肉の塊が3本ほど大きなまな板の上に転がっていて、客は好みに合わせ肉を選び、欲しい分だけスライスしてもらう。
最初に2~3枚スライスして厚さを見せてくれる。サービスとはこういうものなのだ。
買い物をしていて実に気持ちが良い。個人的には、やや薄切りが好きだ。これもきっちりと煙の匂いがする。
スモークチキンもあなどれない。
鳥の胸肉はどちらかといえばパサパサしがちである。僕は焼くのも油で揚げるのも腿肉が好きだが、この燻製は胸肉がぴったりだ。鳥の胸肉をこれ以上美味しく食べる方法があるならば、是非とも御馳走してもらいたい。
スモークサーモンだって自家製だ。
ニュージーランドのスモークサーモンはコールドスモークとホットスモーク、2種類ある。コールドスモークは燻してあるが基本的に生だ。薄切りにしてケッパーと一緒に食べると旨い。一方ホットスモークは完全に火が通って身はうすいピンク色になる。
この店ではホットスモークだけだ。コールドスモークが無いのか尋ねると店のオヤジが言った。
「コールドスモーク?うちは作らん。スモークサーモンを一番美味く食うのは断然ホットだ」
肉屋のオヤジにはこだわりがあった。もちろんウマイ。どれもみな素朴な燻製の味なのだ。
郊外ではアスパラガスの無人販売に立ち寄る
道端に冷蔵庫がドンと置かれ、中にアスパラガスが山盛りにある。
使い古しの冷蔵庫には電気が通じてないが保冷庫として利用する。物を捨てないニュージーランド気質がここでも見られる。
数年前初めてこの場所を見つけた時には、冷蔵庫の中にアイスの空箱があり、客はお金を箱に入れ、お釣が必要な時には各自で小銭を箱から持っていくというシステムだった。
「へえ、これでもお金が無くならないんだ。まさにオネスティーボックス(正直の箱)だね」
そんな会話をJCとした。
同じ年のこと、小銭もなくお釣もないけど、どうしてもアスパラガスを買いたかったので、敷地の中へ入り直接売ってくれるように頼んだ。でてきたおばちゃんが僕達に尋ねた。
「あんたたち、ちょくちょく買ってくれるわね。生のアスパラガス食べた事ある?」
「ないない」
「じゃあちょっと、ついておいで」
おばちゃんについてビニールハウスへ入ると、アスパラがニョロニョロと地面から何本も生えている。おばちゃんはおもむろに数本を切り取り、僕達に渡した。そのまま恐る恐るかじってみた。甘い!野菜とはこんなに甘くて旨いのか。フレッシュというのは最高の調味料だ。
次の年、冷蔵庫の横に鉄の箱が据え付けられた。
「ああ、やっぱり誰かお金盗んだんだ。悪いヤツはいるんだね」
おかげでお釣を取れなくなった。
さらに次の年こんな張り紙が貼ってあった。
『アスパラガスを持っていくならお金を払いなさい。私達はほとんど儲け無しで無人販売をやっています。お店に出した方がはるかに高く売れます。今後アスパラガスを盗むようなら無人販売を止めます』
もっともなことだ。幸い無人販売はまだ続いている。値段はその時から一束$2・50で変らない。

僕は車を走らせながら娘に尋ねた。
「お前、スプリングフィールドに行ったらちゃんとマリリンに挨拶できるか?」
「うん。大丈夫。マリリンがチョコレートフィッシュをくれるの。それでサンキューマリリンって言うの」
「本当かあ?又いつもみたいにオレの後ろに隠れるだろう」
「ちょっと恥ずかしいの。でもがんばる」
「そうだぞ。お前これから大きくなったらスキークラブの人達とも話しをするんだぞ。ブラウニーとかヘイリーとか」
「ワザーとか?」
ワザーはヘイリーと一緒にパトロールをしているワイルドなヤツで、なぜか娘のお気に入りなのだ。
「そう。ワザーとか。できるか?」
「うん。フォーになったらね」
「フォーになったらできるのか?」
「うん。フォーならできる」
娘はあと数ヶ月で4歳になるが、4つになると色々な事が出来るようになる・・・らしい。
マリリンの店ではお約束のように魚の形をしたチョコレートをもらい、これまたお約束のように僕の後ろに隠れてしまう。
「マリリン、今からヘイリーのうちへ行くよ」
「あら、良いわね。ミユキを連れて行くには良い所よ。それに今ならホワイトベイトの季節ね」
「うん、今年は冬が早く終わったからホワイトベイトの漁が長いらしい」
「そう、気を付けて行ってらっしゃい」
「ほらお前、マリリンにバイバイって言え」
僕は娘の頭を小突いた。
「バイバイ」
娘は恥ずかしそうにうつむきながら、小さな声で言った。やれやれ。
アーサーズパスを越える頃には雨が本降りになってきた。今日はこの前線が通過し、明日からは上り坂だ。
今晩は雨のキャンプだ。まあ娘には良い経験だろう。
アーサーズパス近辺にはシェルターと呼ばれる避難小屋が点在する。その一つでキャンプをする。シェルターは三方を壁に囲まれているので雨でも平気だ。外では土砂降りの雨が、地面と屋根を強く叩く。夜の雨を見ていると、自然の営みというものを感じる。
七輪で火を起こし、お気に入りのベーコンを焼く。白い脂身が徐々に透明になり、油が絞り出て下にジュージューと落ちる。炭の上に落ちた油は白い煙となり再び上の肉を燻す。ベーコンを一番旨く食べるのがこれだ。アスパラも一緒に焼く。ベーコンとアスパラはゴールデンコンビだ。娘も大好きでガツガツと手掴みで食っている。僕らはキャンプに来ているのだ。上品に食う必要は無い。
「なあお前、キャンプに来て楽しいか?」
「うん。楽しい」
「雨が降っていても?」
「雨はイヤだけど楽しい」
「明日はどこへ行く?」
「ヘイリーのうちにキャンプに行く」
「よし。それならお前、自分のことは自分でやるんだぞ。それができなかったら帰るからな」
「うん」
「返事は?」
「ハイ」
「よろしい」
その晩、娘を寝かせようとした時、あることに気が付いた。娘の着替え一式を入れたバッグが無い。
「あーあ、やっちまった」
思わず声に出してしまい、娘と向き合った。
「どうしたの?」
「うん、お前の着替えを家に忘れてきちゃった」
「ふうん」
「それでだ、どうだお前、服を取りに家に戻るか?」
「イヤ」
「それならグレイマウスへ行ったら下着だけ買おう。あとは今着ているのと、この一着だけだからな。汚さないようにしろよ」
「うん」
「あーあ、それにしても忘れるとはなあ」
「ダメねえ」
「うーん、ダメだなあ。いいか、これからお前が大きくなったらこういうことも自分でやるんだぞ。山に行くってことは全てなんでも自分でやるってことだぞ」
「うん。フォーになったらね」
「お前なあ・・・まあいいか。よく聞け、オレがダメだったら深雪がしっかりするんだぞ。自分で出来る事は自分でやれ。しっかりしなかったら帰るぞ」
「わかった。しっかりする」
「よろしい」
世の中の不条理については、これから学んでいくことだろう。

次の日グレイマウスで買い物を済ませ、西海岸を北上する。
パパロアナショナルパークは小さい国立公園だが、好きな場所である。
西海岸でも南のフィヨルドランド、中央のウェストランドとは雰囲気が違う。こうやって色々な所をほっつき歩いていると、国立公園の個性のようなものが見えてきて楽しい。
この公園ではニカウパームという椰子が多い。ニュージーランドに唯一ある椰子だ。地元民はニカウトゥリーと呼んで親しんでいる。庭にこの木を植えている人も多い。
以前、オークランドに行った時にこの木が多いのに驚いた。たぶんそこに住んでいる人にとっては、僕達がキャベッジトゥリーを見るぐらいに何てことの無い木だろうが、ディープサウスに住む者には、とても新鮮なのだ。この辺りが植生域の南限なのだろう。
オークランドの木は葉の根元の脹らみが少ないが、ここの木はポテッと脹らみ、独特のシルエットが海をバックに浮かぶ。単純に美しい。
娘は、ニカウトゥリーニカウトゥリーと見つけては喜んでいる。なかなかよろしい。
ここの国立公園の目玉はプナカイキと言う場所のパンケーキロックだ。文字通りパンケーキを重ねたような形の岩が、海岸に突き出す場所がある。
トレッキングとしては物足りないが、素敵なウォークで子連れにはちょうど良い。
二カウパームの多いブッシュを抜けると岩場に出る。幾筋も横縞の入った岩が下の海に直接落ちている。波が打ち寄せ岩に当たり、岩の隙間から間欠泉のように吹き上がる。太陽を背にすると虹が現われる。ブローホールと呼ばれるものだ。
ここは観光トラックとなってしまったがそれには訳がある。
良い所だからだ。
国道に近いところでこんなステキな所があれば、車を止めて歩きたくなるのは人間の自然な感覚だ。
トラックはきれいに整備され、サンダルでも歩ける。ループになっているので人とのすれ違いが少ない。一つの道を往復するより、適度に人が分散され多くの人が楽しめる。手すりを止めている岩もパンケーキの形になっていて周りの景色と調和している。こういう場所を設計する人のセンスが好きだ。
タスマン海の彼方で水平線がくっきりと空との境を分ける。
西海岸に戻ってきた。
ウェストポート、人口二万ほどの町だ。
西の港、ひねりも何も無い、西にある港町である。
近くには石炭の鉱山があり、鉄道でアーサーズパスを越え、東のクライストチャーチへ運んでいる。
町から10分も走れば人がほとんど住んでいない牧場の風景が広がる。さらに5分も走れば行き交う車は無くなり、道は砂利道になる。
海岸線を道は進み、海を見下ろすように、家がポツリ、ポツリと建つ。自分が何も知らないでここに迷い込んだら『いったいどんな人がこんな所に住んでいるんだろう?』絶対そう考えるだろう。そんな家の一つがヘイリー・グリーンの家で、苗字のまま、緑のポストが目印だ。
ポストからはブルドーザーで切っただけの道をゴトゴト進む。数百mほど進むと建物が見えてきた。駐車場の脇には赤白青の六角形の派手なトレーラーハウス。一体こりゃなんだ?
家へ行くと長女のハンナが出てきた。ヘイリーはホワイトベイトを取りに行ったらしい。車で数分の川へ僕らも行ってみた。
河口では茶色いウェーダーに身を包んだヤツが漁の真っ最中だった。バケツの中には取れたばかりのホワイトベイトが透明な体をくねらせている。
短い挨拶を交わし、娘とそのへんをブラブラと歩く。娘が僕に尋ねた。
「ねえ、もうひとつのヘイリーは?」
「ん?それを言うならもう一人だろ」
「うん。もう一人のヘイリーはどこ?」
「アレがヘイリーなんだよ。ヘイリーは一人しかいないんだぞ。ブロークンリバーで会ったのと同じだぞ」
「ふーん」
娘は雪山でしかヤツを見たことが無い。確かに山で会うヤツとは雰囲気が違う。娘が間違うのも無理はない。
そうこうしているうちに車が1台やってきた。運転しているのはさっき会ったハンナ。助手席には奥さんのジューが乗っている。ハンナは14歳、クラッチ付きの車の練習中だ。ちなみにオートマチックはもう運転できる。ここでは車を運転するということは生きていく為に必要なことなのだ。
子供を機械から遠ざけるのではなく、機械を運転させて危険性を教え正しい使い方を教える。教育とはこういうことだ。
家に戻りテントを張る。娘が手伝うと言っているが、3歳の子供になにが出来るわけでない。僕の後にくっついて、ペグを渡すぐらいだが、本人は仕事をしたつもりで満足そうだ。
家に入り、ジューにお土産の燻製とアスパラを渡す。
「あら!ありがとう。この辺ではアスパラは貴重よ。あたしもここで育ててみたけどダメだったの。この辺りは土が湿っていて、地温が上がらないから育たないのよ」
家の前のテラスには居心地の良い空間があり、海を見渡せる。ヘイリーはサーファーでもある。波をチェックするには絶好の場所だ。あんなにあこがれた海に沈む夕陽だって見える。まさにここはスィートパラダイスだ。
まもなくヘイリーが漁から戻ってきて、近くのパブに一緒にビールを買いに行く。深雪もヘイリーの末娘、トメカも一緒だ。
パブでは何はともあれ乾杯である。
鉱夫の黒、といういかにも炭鉱のある町らしい名前のビールである。他の街ではお目にかかれない地ビールなのだ。
グレイマウスのモンティースのオリジナルとブラックの中間ぐらいの濃さで、こちらのほうがシンプルにウマイ。一口飲んでこの旨さに惚れ込んでしまい、何杯もお代わりをした。
誰かがこの国のビールは麦の味がする、と言っていた。そりゃそうだ、ビールとは麦から作る物なのだ。
この辺りの水がうまい、というのもビールが美味い条件なのかもしれない。それくらいここのビールは美味い。
残念なことは、ここでしか売っていないことなのだが、逆にそれが良い所なのかもしれない。このビールを飲みたかったらここへ来ればよい。
ラベルは炭工夫がヘルメットにヘッドライトをつけビールを飲んでいる絵で、これもまた良い。良いこと尽くめのビールだ。
ほろ酔いで家に帰り晩飯だ。メニューはもちろんホワイトベイトなのだ。
ホワイトベイトは日本の白魚のような物で、この時期になると川を遡る。岸に近い所をゆっくりと泳ぎ、それを人間が大きなタモですくうのだ。
以前はたくさん取れたのだが最近は乱獲がたたって数が減っている。その影響で値段も跳ね上がり、都会では1キロあたり$100~$120ぐらいで売られている。庶民が簡単に食べられる値段ではない。
食べ方は卵を溶いたところに塩コショーと魚を入れフライパンで焼きレモンをかけて食べる。
ニュージーランドの春の味覚だ。
91年に西海岸を旅した時、グレイマウスに立ち寄った。ちょうど町の祭りの際中でホワイトベイトの屋台が出ていた。
ためしに一つ買ってみると、厚さ1センチぐらいのパテにはぎっしりと小魚がつまっていて、それを食パンではさんで食う。ゴーカイでシンプルで実に旨い。
値段は$1・50、安いからお代わりをした。
『なんだホワイトベイトって安いんだ』その時はそう思ったが、以来そんなぎっしり詰まったパテにはお目にかかれない。
今、店でホワイトベイトを注文すると、パテの中に十匹ほどかろうじて入っているぐらいのものだ。ホワイトベイトより小麦粉と卵のほうがはるかに多い。それをサラダとチップスと一緒に食べる。
グリーン家の晩飯は昔ながらのパテだ。つなぎをほとんど使わないのでホワイトベイトはバラバラと崩れる。上品に食うことなどしない。
一口食べ、あまり美味さに絶句。
「くーっ!うめえ!」
娘はガツガツと手掴みで口にほお張る。
ヘイリーが嬉しそうにそれを見て笑う。
至福のひと時である。

数年前のある日、僕はブロークンリバーにいた。たまたま運良くオープンしたばかりのバーンに立った。前の晩の降りからして、腰ぐらいのパウダーは間違い無さそうだ。
どこを滑ろうか、上から眺めていると数十m先でスキーパトロールが手招きした。
ついて行ってみると、まっさらな斜面に大きな穴が一つ。朝のうちにパトロールがダイナマイトを投げ込んだ場所だ。雪は安定しているらしく雪崩の跡は無い。
パトロールが爆弾を仕掛ける場所は、一番雪崩が起きそうな場所、一番危険な場所であり、一番おいしい場所でもある。
「おー!よさそうじゃないか」
「お前にやるぞ」
「いいのか?ありがとう」
短い会話を交わし、僕は深い快楽に身をゆだねた。せっかくパトロールにもらったこの場所だ、思いっきり味わわせてもらおう。
小細工は一切無し。板を思いっきり深く潜らせ、反動で浮上させる。そして次の下降へ。自然の重力、雪の抵抗、自分の体が一つになる。このために自分は生きていると感じる瞬間だ。予想通り雪は腰まであり、体で押し分けられた雪の断片が胸にかかる。一定のリズムでターンを繰り返す。自分の眼下にはまだまだ人が踏んでいない雪面が続いている。
快楽、陶酔、放心。エクスタシーを感じるのはSEXだけではない。
何本かそんな滑りを繰り返し、パーマーロッジへ戻るとさきほどのパトロールがいた。
マオリ独特の浅黒い肌が、雪焼けでさらに黒ずんでいる。長髪を束ねたマレットと呼ばれる髪が帽子の後ろからぶらさがっている。
あごの周りはヒゲでおおわれ、雰囲気としては山男のレゲエのおじさんだ。
「ありがとう。良かったよ」
「そうだろう。今日の雪は美味いんだ。グフフフ」
「紹介が遅れたな。オレはヘッジ。何回かは会っているよな」
「ああ。オレはヘイリーだ」
僕らは固い握手を交わした。
まさかその時には、家に遊びに行って家族ぐるみの付き合いになるとは夢にも思わなかったが、いやはや人生とは面白いものだ。

その夜テントに入ると娘が泣き出した。
「どうした?」
「ここが痛いの」
娘は泣きながら右あごを指差した。あごは真っ赤に腫れ上がり、熱もかなりあるようだ。何が起こったのだろう。僕は慌てながら言った。
「よし、いいか、オレはヘイリーに薬があるか聞いてくる。お前はここで待っていろ」
娘は不安そうにうなずいた。
ヘイリーに事情を説明し痛み止めの薬をもらい、急いでテントに戻る。テントの外からも娘の泣き声が聞こえる。
娘に薬を飲ませようとしたがうまく飲めない。普段は甘い子供用のシロップを飲んでいて、錠剤を飲み込むという動作は生れて初めてなのだ。薬を味わってしまい、あまりの不味さに口から出してしまう。
「マズイのは分ってる。だけど今はこれを飲むしかない。それがいやなら医者に行くか?」
娘はシブシブ泣きながら薬を飲んだ。
十分後、薬が効いたのか、あごの腫れは引き熱も下がってきた。娘も落ち着き再び眠りについた。その後、朝まで起きる事は無かった。
次の朝テントの中で娘と向かい合ってあごの様子を見た。多少腫れているが気にするほどではない。熱は完全に下がったようだ。一体何だったのだろう。
「お前どうする?家に帰るか?医者に行くか?」
「イヤだ」
「だけど痛かったら帰らなきゃならないんだぞ。昨日みたいになったら嫌だろう」
「でも今は痛くないよ」
「夜、又痛くなるかもしれないぞ」
「又薬飲む」
「うーん、じゃあこうしよう。あごが痛くなったらすぐにオレに話す事。それで様子を見てここにいるか、医者に行くか、家に帰るか決めよう。いいか、ちょっとでも痛くなったらすぐに言うんだぞ」
「うん」
「返事は?」
「ハイ」
「よろしい」
ケガや病気を恐れて外に出ないより、そういったハプニングを乗り越えながら進む方がよっぽど前向きだ。
以前本で読んだか人に聞いたか忘れてしまったが、笑うという動作が人間の病気の進行を止めるもしくは直すという話を思い出した。それなら試してみる価値はある。
「じゃあ今日は汽車に乗りに行こうか?」
娘は汽車が大好きなのだ。
「行く行く!」
娘はすでに大はしゃぎで昨晩の事は1秒で忘れてしまったようだ。
午前中はヘイリーが近くにあるアザラシのコロニーを案内してくれる。30分ぐらいのショートウォークだ。
「ミユキ、あそこにベイビーアザラシが見えるだろう。お前と同じで小さいな」
ヘイリーは娘を抱いてアザラシが良く見えるように、手すりの上に座らせる。落ちる事の無いよう娘の肩に手を乗せている。ヤツの暖かさがヒシヒシと伝わる。後ろから見ていて実に微笑ましい。娘も満更でも無さそうにヘイリーの説明を聞いている。
「ここは西海岸ではかなり北だけど、ここからもクックとタスマンは見える。ここから南は海岸線が曲がっているので、山は海に浮かんで見えるのさ。グフフフ」
ヤツの笑いは独特なのだ。
「この辺もやっぱり雨は多い?」
「それがだな、ここは山から離れているだろ。だから他が雨でもここだけ晴れる事が良くあるんだ」
「そうかあ、前にハーストでキャンプした時には、オレのすぐ後ろで雨になってたよ。オレはビーチにいたから湿気だけが素通りしていったよ」
ヤツは目を見開いてうなずいた。
「ここの岩場では何が取れる?」
「マッスル(ムール貝)なんかどこにでもある。あとはパウア(あわび)だな。キナ(ウニ)もとれるぞ」
「フーンいいなあ。キナなんか白人は食べないだろ」
「ああパケハは魚貝の食い方を知らん」
 パケハとはマオリ語でヨーロッパ人、白人のことだ。
「それなら日本は面白いぞ。オレは港町で生まれ育ったからな。魚は朝昼晩と食ってた。鰯とか鯵とか鯖などが多いな。日本では青い魚って言うんだ。こっちではあまり出回らないけどな。その他ウニ、カニ、エビ、イカ、タコ、貝、海藻、軟体動物、毒の無いものならなんでも食う」
ヘイリーは魚貝類が大好きだ。それも西洋風のホワイトソースなんかよりも、塩コショーをかけて焼くだけというシンプルなものを好む。
来年ヤツを日本へ連れて行く予定があるが、日本の魚市場など見せたら喜びそうだ。
家に帰ってきて、僕は気になっていた事を聞いた。駐車場にある派手なトレーラーのことだ。
「なあこのトレーラーは一体何だ?」
「ああ、それはオレの夏のビジネスだ。さっきのアザラシの所にアイスクリームの店を出すのさ」
「なんとまあ、これはアイスクリームショップか。それはいいなあ。夏は忙しいだろ」
「ああ、結構な。だけど波が良いと店を女房に任せてサーフィンに行っちまうけどな。グフフフ」
「聞いたか深雪?ヘイリーは夏はアイスクリーム屋のおじさんだってよ」
「ちょうど良い、ミユキ、アイスでも食べるか?」
娘は目を丸くして僕を見上げた。
ヘイリーは六角形のトレーラーショップからアイスを出してくれた。
「ほら、深雪。ちゃんとヘイリーの顔を見てプリーズって言え」
「プリーズ」
「OK、ミユキ。いい子だな」
そして娘にアイスを渡す。僕は促がす。
「もらったら何て言うんだ?」
「サンキュー」
「聞いたかヘイリー?マリリンには2年かかったことを、2日間でしゃべったぞ」
ヤツは嬉しそうにグフフと笑った。
午後は約束通り汽車に乗りに行く。といっても片道数キロのトロッコ列車だ。
普段はトレッキングで歩く森の中をトロッコは行く。
実際このコースはトレッキングトラックと並行する。歩く道は何回か線路を横断しながらいく。歩いても1時間ぐらいのコースだ。
娘は満足そうに森を眺める。ひょっとすると森の力が娘の痛みを治してくれるのではないか。何となくそう思った。
線路は川に沿って続く。対岸には巨大な船の舳先のような岩がそびえ立つ。
ここはパパロア国立公園の飛び地なのである。森の植生は他の西海岸の場所に似ているが、この辺りは石灰岩の崖が数百mの高さで並ぶ。ここにはここの良さがある。
列車はゴトゴトと周りのシダをかすめながら進む。
終点からはトレッキングのコースが続く。数分で河原に出る場所もあるし、さらに足を延ばせば洞窟もある。その洞窟を歩くツアーや、浮き輪に乗ってプカプカ森を眺める川下りもある。
その他、近くにはゴムボートによる急流下りホワイトウォーターラフティング、洞窟の暗闇の中を土ボタルを見ながら下るブラックウォーターラフティングなどなど、全くこの国の人が自然の中で遊ぶセンスとアイデアには感心する。
ちなみにヘイリーも以前は洞窟ツアーのガイドやラフティングのガイドをしていたのだ。
今日は娘の保養に来たので、娘に行き先を任せる。森の奥は怖くてイヤだというので河原でのんびりと石を投げる。
樹齢数百年の木々が僕達を見下ろす。BGMは水のせせらぎ、そして数々の鳥の声。太陽は柔らかく降り注ぎ、綿のような雲が浮かぶ。平和な春の午後である。
帰りには街に寄り、子供用の甘いシロップの薬を買う。娘の様子は大丈夫そうだが、万が一の為だ。使わない事を祈りつつ店を出た。
晩飯はやはりホワイトベイトである。
娘は手掴みで貪り食べ、ヘイリーが嬉しそうにそれを見る。
食事の後、娘はハンナとトメカとバービー人形で遊んでいたが、パタンと寝てしまった。ヘイリーは娘を部屋の隅に移し、毛布をそっと掛けた。そして照明がまぶしくないようにライトの向きを変える。
その後僕らは様々な事について語り合った。彼はマオリの事について語り、僕は日本のことを話す。どこかしら共通するところがあり面白い。
テントに戻る時には僕が娘を抱きかかえ、彼がトーチで足元を照らしてくれる。そしてテントの入口を開けてくれるのだ。これは僕らが帰るまで毎日続いた。
娘を寝かせ、テントの外で礼を言うと
「カパイ」
マオリ語で良い、という意味の言葉を一言残し闇に消える。ニクイほどかっこいいオヤジだ。
娘はスヤスヤと寝て朝まで起きなかった
幸運な事に買った薬は最後まで使う必要がなかった。森の力が治してくれたのだろう。 
楽しいキャンプも数日が過ぎ、帰る前日ブロークンリバーのスタッフ達が続々と集ってきた。冬の間に見知った顔が揃ったので娘は大喜びである。
娘のお気に入りのワザーも来た。娘の目下の目標はワザーに「ファニーネーム」(変な名前)と言うことである。ワザーのいない所で何回か練習をするものの本人を目の前にすると恥ずかしくなって僕の後ろに隠れてしまう。
全員が母屋には泊まれないので各自適当な所にテントを張る。グリーン家はいきなりキャンプ場のような雰囲気になった。
末娘のトメカが不平をもらす。
「また今晩もホワイトベイト?もう飽きたわ」
この時期、ヘイリーの家ではお客さんが来ると必然的に晩飯はホワイトベイトになる。
余所者から見ればなんと贅沢なグチだ、と思うが、ここに住んでいる子供の正直な心だろう。
夜になると自分達を含め総勢20名ほどのパーティーとなった。
男達は外でビールを片手にバーベキューを焼く。女たちは家の中でガンガン音楽をかけダンスを踊る。振動で家が揺れるほどだ。そんな騒ぎのすぐ脇では娘がスヤスヤと眠る。
ヘイリーがやさしく毛布をなおす。親戚のおじさんのようなあたたかさが伝わる。
家からヘイリーが出てきて次のビールを開ける。
「ヘイリー、ホワイトベイトは日本にもあるんだぞ」
「本当か?どうやって食う?」
「そうだな、生で生きているまま噛まないで飲み込む。オレはやってみたけどあまり味がしないからなあ。スープにいれたりもするな。それよりオレのホームタウンには漁港があるんだ。そこではな、ホワイトベイトよりもっと小さいのを食うぞ。これぐらいのサイズだな」
手でシラスの大きさをつくる。ヤツは興味深そうに肯く。魚を食う話は大好きなのだ。
ぼくは続ける。
「この魚を沖で取る。新鮮なら生だな。ショーユに生姜をまぜてな。それから茹で上げたのも美味い。おれが一番好きなのは茹でたやつだ。その他スープに入れたり、油で揚げたり、天日で干したりいろいろあるぞ」
「それはいいなあ。ここの料理は卵を溶いて焼くだけだからなあ」
ビールをあおりヤツは続ける。
「ここでもホワイトベイトは沖で見られる。法律で決められていて沖で取るのは禁止だ。ゼリー状に固まって泳いでいるんだ。それが河口付近でバラバラになり、淡水にしばらく体を慣らし川を遡る。そこにオレがいて、とっ捕まえてここで食う、というわけだ。グフフフ」
確かにここのホワイトベイトは美味い。他所で取れるものよりはるかに大きい。これだけ大きいと味は白身魚に近くなる。かといって完全に白身になってしまうのではなく、ホワイトベイトの味は十二分に残す。
ああ、こんなのテンプラにしたら美味そうだ。
「今度、うちに来いよ。日本食を御馳走するぜ」
「それは楽しみだな」
いつのまにか話は日本の話になった。
「ヘッジ、日本の宗教は何だ?仏教か?」
「うーん、一応仏教だけど、それは葬式の時など、主に特別な時の為のものだな。こことあまり変らんよ。それよりもだ、その仏教は日本古来のものじゃあないんだ。もともとはインドかどこかだろ?」
「そうだな仏教はインドで始まったんだな」
「仏教が日本に来る前には、ジャパンオリジナルがあったんだ。シントーって言うんだ。知ってるか?」
「いいや、知らない」
「まあそうだろう。こんな言葉がある。八百万の神の国」
横で話を聞いていたワザーが口を挟む。
「なんだ!日本ってのは神サマもそんなにいるのか。多いのは人間だけじゃあないんだな。まあ1億も人がいるなら神サマが800万くらい居てもおかしくはないわな」
「茶々を入れるなよ、ワザー。まあ考え方はだな、この世の全てが神だ。太陽、海、空、火、星、月、水、風、雪、岩、木、花、鳥、動物、とにかく全てだ。神と呼ぶより魂というようなものかな」
ヘイリーが低い声でしみじみと語る。
「マオリも似たような考えだ。森で木を切る時には木の神に伺いをたててから切る」
最近ではマオリと日本人は、起源は同じという説がある。
「面白いのはだな、いろいろな神サマがいるだろ、中にはチンポコの神様なんてのもあるし、オメコだってもちろんある。神様と言っても人にとって悪いものもいる。死神、疫病神、貧乏神なんてものもある。空気のように実体のないものだってある。おならの神サマだっているんだぞ。ワザー、お前の神サマだな」
ひとしきりの笑いの後、ヘイリーが続けた。
「マオリでは、シダの中心から生えてくる丸まった所をコルと呼ぶ。新しい命という意味だ」
その事を知っていたが、彼の口から出る言葉には重みがあった。日本ではそれを喜んで食う、とは言えない雰囲気になってしまったので黙っていた。
その後、ブロークンリバーのスタッフが手土産に持ってきたアワビ、ムール貝などをバーベキューで焼く。トレッキングのついでにどこかの岩場で取ってきたのだ。ワイルドなヤツらが集るキャンプはとても楽しい。
そして次のスパイツを開け、西海岸の夜は更けていくのであった。
次の朝、昨晩のパーティーの余韻が残る家では、ヘイリーが朝飯を作っている。
メニューはやっぱりホワイトベイトだ。
「ヘイリー、女房にお土産を持っていきたいんだ。ホワイトベイト、売ってくれないか?」
「ああ、いいよ。ちょっとついて来い」
彼は床下の物置へ向かった。中には大型の冷凍庫がある。蓋を開けながらヤツが尋ねる。
「いくつ欲しい?」
「2つぐらいかな」
二つの包みを新聞紙でくるみ僕に手渡した。包みは思ったより重く、1キロ近くあるだろうか。
「いくら?」
「いいよ、持っていけ」
「え~、そんなわけにはいかないよ。さんざん世話になって。ここの相場で買うよ」
「いいから、持っていけ」
「良くないって。町で幾らで売っているか知ってるだろ。どっちみちウェストポートで買うつもりだったんだからさあ」
「いいから、ここで取れたものだから」
チクショー、カッコ良すぎるぞ、オヤジ。
胸に熱いものが込み上げる。
ニュージーランドという国、そしてそこに住む人との暖かいふれあい。そんな甘っちょろいものではない。
どっぷりと頭の先から足までつかり、深く、深く、どこまでも深く潜って行くようなもの。
自然の持つ奥深さと共に人間の世界の深さを見せつけられた。
ここでも僕はこの国にやっつけられてしまった。
熱い思いと手土産を持ち、妻の待つ東海岸に車を走らせた。

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