あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

タネの話

2015-09-23 | 日記
『種が危ない』という本を読んだ。
以前にも読んで再び読み返したわけだが、日本で種屋さんをやっている人が書いた本で、内容はF1種と固定種の話である。
固定種とは、地域で何世代にも渡って育てられ自家採取を繰り返すことによってその土地の環境に適応するよう遺伝的に安定していった品種。
これに対してF1とは異なる性質のタネを人工的に掛け合わせて作った雑種の一代目。
現在世の中に流通している野菜や花のタネの多くがF1である。
F1種というのは自殺するタネという異名もあり、F1から育ったタネを元に育てても同じものができない。
なのでタネの自家採取ができない。
農家は毎年種会社からタネを買い続けなくてはならない。
そしてそれが農薬や化学肥料と簡単に結びつくのは、これまた簡単に想像できる。
F1の利点としては、揃いが良い。工業製品のように同じ形やサイズができる。
要は見栄えがいいわけだ。
店できれいに野菜が並べられているが、あれだ。

つい先日は庭の温室でチンゲンサイを育ててみた。
苗を買ってきて9株ほどやってみたが、見事に同じサイズの物が同じタイミングでできた。
なるほどこれがF1なんだな、と思った。
農家にしてもサイズや生育にばらつきがあるより、揃っている方が楽だ。
なんといっても効率が良い。
そうやって野菜も工業製品のようになっているのが今の現実だ。
だが忘れていないか?
野菜が生き物だってことを。
野菜を育ててみれば分かることだが、発育の早いのや遅いの、太いものや細いもの、いろいろとできる。
この『いろいろ』というのが大切なところなのだ。
それって人間社会にもあてはまることではないか、と思う。
効率性を重視してF1種や遺伝子組み換えなど人間にとって都合の良い所だけを伸ばして、化学肥料や農薬を多用している今の農業。
学校の勉強だけが大切で、良い学校、良い大学、良い企業に就職するが、個性という物を持たぬ人達。
どこか似てないか。

本からの引用だが、F1野菜のタネの長所について、種苗会社の人間は「父親と母親の優れたところだけが現れるからいいんです」と言うが、これはとんでもないうそっぱちだ。
F1は人間にとって都合のいい形質が現れるように作っているだけで、優れているわけではない。
以上引用終了。
種会社の人も仕事だからなんとかやっていかなきゃならないだろうから責めるつもりは毛頭ない。
だが言い方を変えれば、人間のエゴ。
そのエゴを育てているのは、きれいな野菜しか見ない消費者であり、効率性だけを求めた農家であり、そこに巣食う農協や種メーカー、そしてモンサントのような農薬の会社へと行く。
問題を深く掘り下げていけば、食や健康、医療、教育、行政、社会というところへ行き、全てはリンクする。
だれが悪いというのではなく、それは人類全体の責任なのだ。

ここであえて言っておくが僕はF1種を全否定するわけではない。
こういう話をすると、固定種は自然だから良くてF1は人工的だから悪いんです、という考え方をする人がたまにいる。
オーガニックとか自然食が宗教みたいになっちゃっている人ね。
F1が出てきたのはそれなりに理由があるし、今現在こういう状況になっているのも人類全体の責任である。
そして今の地球上の人間の食を支えるにはF1は必要だろう。
僕の庭でもF1と知りながら育てているものもある。
F1種だって食いきってしまえば問題ないのだが、次世代のタネの話だとこれは別だ。

我が家ではコンポストからカボチャが芽を出す。
これを育てていたのだが、そうやって出来たカボチャが美味くない。
大地からの恵みをけなすのも少々気が引けるが、そこは人間の欲ということで勘弁してもらおう。
味は薄く水っぽく、煮ても焼いてもダメという、限りなくウリに近いようなカボチャが出来た。
まあカボチャもウリの仲間なのだからそういうものだと言えばそうだが、食べたいのはウリではなくカボチャだ。
これなんぞはF1の成れの果てなんだなと思った。
そこで今年はカボチャのタネを購入。
F1ではなく固定種を育ててみることにした。
固定種というのはそれで完結なのではなく、そこからその土地や気候に合わせて自分で変化していく。
今年はコンポストからのカボチャの芽は捨てて固定種を育てれば、来年以降は我が家の庭に適応したカボチャがコンポストの中から生まれてくるだろう。
そうやって循環するシステムは人間にも野菜にも土にもよろしい。
愛が根底にあるシステムはそれに関わる者が全て幸せになれる。
それに関わる者とは人間だけではなく、植物や土や虫や微生物、空気や水もそれに含まれる。
そうやって考えてみると、子孫を残せないF1の野菜は可哀そうだな。

さて、固定種のタネを育てて循環システムを作るのは、物によっては勝手にできる。
こぼれ種というヤツだ。
我が家ではシソ、シルバービート、春菊、パセリ、レタス、コリアンダーなどが勝手に芽を出す。
これらは植物が芽を出すタイミングや場所を決めるという感じで、なんとなくそこに野菜たちの意志を感じてしまう。
なのでその周りの雑草を取り払い、水をあげるとスクスク育つ。
いくらこぼれ種が強いと言っても雑草に埋もれていたら育たない。
環境を整えてあげるという人間の手間も必要なのだ。

数年前から雑草に混じり、何かの木が芽を出していた。
何だろうなこれは、どこからか種が飛んできたのだろうか、と思っていたのだが、なんと梅干の種から芽が出ていたのだった。
日本で取れた梅が、うちの親によって梅干にされニュージーランドにやってきて、僕に食われたタネがコンポストの中で時季を待って芽を出す。
ここまで来ると執念のようにも感じられるが、そこまでして我が家で育ちたいのならばいくつか育ててみようかな。




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2 コメント

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Unknown ()
2015-09-23 17:12:16
山小屋

そうか。お袋さんを大事にしてやってくれ。
また来年だな。
返信する
梅干しの種 (山小屋)
2015-09-23 11:17:29
良い話だね。

ところで、今年は母親が入院しちまったので行けそうもない。残念。
返信する

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